銃と弓矢が戦ったらどっちが勝つか、こんな質問をすれば一笑に付されるだろう。
「銃が勝つにきまってるじゃないか。弓は古代の武器であって現代じゃ使えない」と。
By: Atle Solbakken
確かに現代の戦争で弓矢が用いられることはなく、弓はスポーツや古式武道の一種として細々と残る程度であり、実戦ではまず使われない。
また歴史を学べば銃器の威力がこれでもかと教えられ、日本史の長篠の戦いや幕末の戦争だけでなく、世界の植民地拡大における銃器の役割を知ることとなる。
銃の凄さと、それに対する弓は時代遅れで「過去の遺物」というイメージがどうしても刷り込まれてしまう。
しかしながら、そこからもう一歩踏み込んで、銃の発達史を調べてみると、意外に銃砲の知られていない側面が明らかになり、面白いものがある。
それをたどっていくと「銃の無敵さ」に疑問符のつく、ちょうど良い例を火縄銃が普及し始めた頃の日本史で上げていきたい。
By: Yuya Tamai
橋本一巴は合戦の最中、敵陣の中に林弥七郎の姿を見つける。
弥七郎は弓と剣術に秀でた武士であり、橋本一巴とは以前から深い遺恨があった。これを機に、両者は一騎討ちに臨むこととなる。
得物はそれぞれの得意とするものを選んだ。橋本は鉄砲、弥七郎は弓である。
橋本は念入りに準備を整え、火縄銃に「二つ玉」と呼ばれる弾を二発込めた(命中率を高めるためとされる)。一方、弥七郎は四寸ほどの鏃を備えた矢を用意し、決戦に備えた。
主君・信長や周囲の武士たちが見守る中、ついに勝負が始まる。
弓の達人と鉄砲の達人 ―― ともに一流であり、師と仰がれるほどの武士同士である。両者が同時に弓を引き、銃を構えて撃ち合った瞬間、勝負は一瞬で決した。
弥七郎の放った矢は橋本の脇の下を貫き、これを即死させる。だが同時に、橋本の放った弾丸も弥七郎の体を打ち抜き、深手を負わせたのである。
なおも弥七郎には息があったが、信長はそばにいた小姓に「首を取れ」と命じたという。
こうして弥七郎は討たれ、両者は相討ちに終わった。この逸話が示すように、いかに名手同士であっても撃ち合いはほぼ相討ちとなり、一方が圧倒的な優位に立つことはなかったのである。
弓と鉄砲を賭けた戦い
黒田長政と立花宗茂が朝鮮出兵に従軍していたときのこと。碧蹄館の激戦を制した後、二人は互いの労をねぎらい、宇喜多秀家の陣で宴を開いた。
ところが、その宴の最中、長政と宗茂の間で思わぬ論争が起こる。話題は「鉄砲と弓、どちらが武器として優れているか」というものだった。
By: Sharaf
長政は、「矢は風の影響で簡単にそれてしまい、正確に当てるのが難しい。銃のほうが有利であり、もはや弓は不要ではないか」と主張した。
これに対し宗茂は、弓と鉄砲の双方に通じた名手であり、それぞれに状況に応じた利点があると反論する。たとえば鉄砲も、雨が降れば十分に力を発揮できないと指摘した。
互いに一歩も譲らず、議論は決着がつかない。やがて戦国らしく、実際に勝負で白黒をつけようという流れになり、宇喜多秀家が審判を務め、笄(かんざしに似た調髪道具)を的にすることとなった。
敗者は自分の武器を相手に譲る ―― 酒席の余興とはいえ、戦に関わる話題だけに、両者ともどこか本気だったのかもしれない。
長政は鉄砲の名手、宗茂は弓術の免許皆伝。ともに熟練の腕前を誇る二人だったが、勝敗は明確に分かれた。
宗茂が弓で見事に的を射抜き、勝利を収めたのである。
長政も潔く敗北を認め、約束どおり愛用の鉄砲「墨縄」を譲った。一方の宗茂も、代わりに自らの愛用の弓を贈ったという(なお、この「墨縄」は現在も現存している)。
この逸話からは、当時すでに鉄砲と弓の優劣について人々が強い関心を抱いていたことがうかがえる。
最後に、同じ戦国の世に伝わる、よく似た話で締めくくろう。
虎狩り
稲富祐直は、徳川家康に仕えた鉄砲師範であり、「天下の砲術師」と称されるほどの腕前で知られていた。実際に家康から鉄砲師範として召し抱えられるなど、その技量と地位は非常に高いものだった。
これは、そんな稲富が朝鮮出兵に参加した際の出来事である。
当時、現地では武将たちの間で虎狩りが流行していた。加藤清正の逸話が有名だが、稲富もまた自らの鉄砲を手に虎狩りを楽しんでいたという。
ある日、稲富は野生の虎を見つけ、仕留めようと狙いを定めた。そこへ現れたのが、立花家の侍・十時三弥である。十時も同じ虎を見つけ、鉄砲を構えていた。
せっかくの機会だと、二人は「どちらが先に仕留めるか」で競うことにし、同時に発砲した。
ところが、結果は意外なものだった。
「天下一」と称された稲富の弾は外れ、十時の弾が見事に虎を倒したのである。しかも、虎との距離は稲富の方が近かった。一方の十時は、鉄砲の経験が浅く、ほとんど素人同然だったという。
この逸話は、鉄砲師範である稲富にとっては面目を失う話ともいえる。状況がよほど悪かったのか、それとも実力に疑問があったのか ―― そんな想像さえしてしまう。
「誇張された創作ではないか」と疑う見方もあるだろう。しかし、必ずしも作り話とは言い切れない。
というのも、当時の鉄砲には、このような結果になっても不思議ではない事情があったからである。
性能の問題
戦国時代の鉄砲といえば、「火縄銃」を思い浮かべる人が多いだろう。
この火縄銃は、世界史では「マッチロック式」と呼ばれる銃で、いわゆるマスケット銃の一種である。歴史映画などで見たことがあるかもしれないが、弾や火薬を銃口から一つひとつ詰める必要があり、装填から発射までの手間が非常にかかる武器だった。
弾丸は球形で、現代のような先の尖った形ではない。また銃身の内部には、弾に回転を与えるためのらせん状の溝(ライフリング)がなく、「滑腔銃」と呼ばれる構造である。この溝がある銃(ライフル)は、弾に回転を与えることで飛距離や威力、命中精度を大きく向上させているが、火縄銃にはその仕組みがなかった。
火縄銃の射程はおよそ300メートル前後とされ、1発撃つのにも数十秒ほどかかる。さらに弾の威力や安定性も低く、遠距離になるほど風の影響を受けやすかった。
一方、弓は種類にもよるが、熟練した射手であれば1分間に6~10射を放つことができ、飛距離も300メートルを超える場合があったという。こうして比べると、単純に鉄砲の方が優れていたとは言い切れない。
また、装填に時間がかかるという欠点は戦場では致命的だった。そのため鉄砲は集団で運用されたり、後に銃剣が登場したりと、さまざまな工夫で弱点を補う必要があった。
つまり、技術が十分に発達する以前の銃は、決して圧倒的な「万能兵器」ではなかったのである。実際、弓や歩兵の攻撃に敗れる例も少なくなく、「弓」と「鉄砲」の優劣は時代や状況によって簡単には決められなかった。
現代の私たちは、こうした技術革新の“結果”を当たり前のように享受している。しかし、その過程を知らないままでは、過去の武器に対して誤ったイメージを抱いてしまいがちだ。鉄砲はその代表例といえるだろう。
今日の銃器は高度に発達し、強力な兵器として確立されているが、それは長い年月にわたる改良の積み重ねの成果である。少し時代をさかのぼれば、決して無敵の武器ではなかったことがわかる。
現代の優れた性能に目を向けるだけでなく、その歩んできた歴史にも思いを巡らせてみてはどうだろうか。そうした視点は、鉄砲という存在をより深く楽しむきっかけになるかもしれない。
