銃と弓矢が戦ったらどっちが勝つか、こんな質問をすれば一笑に付されるだろう。
「銃が勝つにきまってるじゃないか。弓は古代の武器であって現代じゃ使えない」と。
確かに現代の戦争で弓矢が用いられることはなく、弓はスポーツや古式武道の一種として細々と残る程度であり、実戦ではまず使われない。
また歴史を学べば銃器の威力がこれでもかと教えられ、日本史の長篠の戦いや幕末の戦争だけでなく、世界の植民地拡大における銃器の役割を知ることとなる。
銃の凄さと、それに対する弓は時代遅れで「過去の遺物」というイメージがどうしても刷り込まれてしまう。
しかしながら、そこからもう一歩踏み込んで、銃の発達史を調べてみると、意外に銃砲の知られていない側面が明らかになり、面白いものがある。
それをたどっていくと「銃の無敵さ」に疑問符のつく、ちょうど良い例を火縄銃が普及し始めた頃の日本史で上げていきたい。
鉄砲と弓の一騎討ち
永禄元年(1558)、尾張統一の途上であった若き織田信長は、浮野に親族の織田信賢を攻め、当時信長の陣営には橋本一巴という武士が付き添っていた。
鉄砲の名手として知られ、実に信長が十六の頃から射撃を教わっていた相手である。
合戦のさなか、橋本は敵側に林弥七郎という男を見つける。
弥七郎は弓と剣術の達人であり、橋本一巴とは以前より根深い遺恨があり、これを幸いにと、お互いは一騎討ちを挑みあう。
用いる得物は、各自の専門とするものだ。即ち、橋本が鉄砲、弥七郎が弓である。
橋本は念を入れて火縄銃に「二つ玉」と呼ばれる弾を二発込める戦術をとった(命中率が上がるとされている)。
弥七郎は四寸ほどの矢じりの付いた矢を準備して勝負にのぞみ、主君の信長や仲間たちが見守る中で果し合いが行われた。
弓の達人と、鉄砲の達人。
ともに一流であり、師と仰がれる武士たちが、お互いが弓を構え、鉄砲で狙いをつけ、撃ち合ったのはほぼ同時、結果は凄惨だった。
弥七郎の矢は橋本の脇の下を貫き、一撃で絶命させ、橋本の放った弾丸も弥七郎に身体に命中して深手を負わせた。
弥七郎はまだ息があったものの、信長がそばにいた小姓に「首を取れ」と下知したという。
このまま弥七郎は討たれて、両者相討ちで終わり、この逸話からも分かるが、名手同士が撃ち合ってもほぼ相討ちで、一方が圧倒的な優位は占めるまでに至っていない。
弓と鉄砲を賭けた戦い
黒田長政と立花宗茂が朝鮮出兵に従軍していた折のこと、碧蹄館の激戦を勝利で終え、お互いが労をねぎらって宇喜多秀家の陣で宴を催した。
その宴のさなかに長政と宗茂の間で、鉄砲と弓に関する論争が起きたという。つまり、どちらが武器として有利だろうかという話になったのだ。
長政は、矢は風で簡単にそれるし、正確に当てられない。銃が有利でもう弓は必要ないのではないか。と主張した。
対する宗茂は弓と鉄砲の両方の名手で、宗茂はどちらにも状況に応じた利点があると語り、例えば鉄砲も雨では無力になると指摘した。
どちらも譲らず、論争は決着がつかず、最後は戦国の世らしく実際に勝負しようということになり、宇喜多秀家が審判となり、笄(かんざしに似た調髪道具)を標的にする。
負けた方が相手に自分の武器を譲るという取り決めができ、酒席の戯れとは言え、戦いに関することなので、多少本気になることがあったのかもしれない。
長政は鉄砲はかなりの腕前であり、宗茂も弓は免許皆伝である、両者とも手練れながらも、結果ははっきりと示された。
宗茂が弓でもって見事的に命中させ、勝利した。
長政も負けを認めて約束通り愛用の鉄砲「墨縄」を譲り、宗茂は代わりに愛用の弓を贈ったという(ちなみにこの譲られた「墨縄」は現存している)
ここからも当時の人間が鉄砲と弓の優位に関する意識があったのがうかがわれる。
さいごに同じ戦国の世の似た話で締めよう。
虎狩り
稲富祐直は家康の鉄砲師範であり、「天下の砲術師」と異名をとった腕前で知られ、家康に徳川家の鉄砲師範として召抱えられるなど、砲術師として格が高かった。
その稲富が朝鮮出兵に参加した時の話である。
現地に滞在中、武将たちの間では虎狩りが流行し、加藤清正の話が有名であるが、稲富も自らの鉄砲でもって虎狩りを楽しんでいた。
ある日に一匹の野生の虎を見つけて、鉄砲の獲物に見定めたが、そこに現れたのが、立花家の十時三弥という侍であった。
同じく鉄砲を手にしており、同じ虎を見つけ、二人はちょうど良いと鉄砲でどちらが倒せるか競争しようという話になり、お互いに狙いをつけて同時に弾を放つ。
結果は意外なものであった。
「天下一」のはずの稲富の弾は外れてしまい、十時の弾が虎を射ち伏せた。
しかもなんと距離では稲富の方が近く、鉄砲に関しては十時は経験の浅い素人同然であった。
この逸話などは、鉄砲師範としての稲富の面目によろしくない話で、よほど状況が悪かったか、それとも実際は腕が怪しかったのかと疑ってしまうようなエピソードとも言える。
「大げさに言ってる創作なのではないか」という見方もあるかもしれないが、しかしこれはあながち嘘とも言えない。
実は種を明かすと、当時の鉄砲では、このようにことが起きても仕方ない点があったのだ。
性能の問題
戦国の鉄砲は「火縄銃」であることは、誰でも知っているだろう。
これは世界史的には「マッチロック」などと呼ばれ、マスケット銃に分類され、歴史映画などで見たことがあるかもしれないが、棒のようなものを使って銃口からいちいち弾や薬包などを詰めるため、装填と発射がすこぶる面倒なのだ。
弾丸は球形で現代のように椎の実型ではなく、また銃身内部にらせん状の溝が施されていない「滑空銃」である。
(銃が「ライフル」と呼ばれるのもの内部の溝にちなむ。この溝によって発射すると弾丸に回転が加わり、距離、殺傷力、弾道の安定性が飛躍的にアップする。現代の銃器もこれに連なる)
火縄銃の射程距離は300メートルあるかないかとされており、一回の射撃に十分前後かかる、その上、弾に威力がないために、遠くの目標になるほど弾道が一定せず風に左右されやすい。
対して弓は種類にもよるが、熟練した射手だと一分間に6~10発、飛距離も300メートルを超えることがあったというから、これでは単純に鉄砲有利とは言えない。
装填に手間がかかるのも、戦場では致命的で、鉄砲兵が集団で運用されたり、銃剣が出てきたのもこの辺りの欠点に対応するためでもあった。
つまり、銃も技術的な発達以前では、圧倒的な力を持つスーパーウェポンとは言えなかったのである。
時には弓矢や歩兵の襲撃に負けてしまう例も多々あり、「弓」と「鉄砲」の優劣は時代によって簡単に言えなかったのが史実である。
さいごに現代のわれわれは技術革新の「結果」を安易に享受している。
それが発達してきた歴史に時に無知であったり、誤解しているために思わぬ間違った感覚を抱きがちで、鉄砲はその良い例だ。
「鉄砲」が高度に発達し圧倒的な武器として確立されている現代、しかしこれも長年の研究と発達と結果なのだ。
ちょっと時代を遡るだけで究極的な携帯兵器と言えなくなるし、決して無敵ではなかった、現代の鉄砲の素晴らしい性能を愛でつつも、それが経てきた過去に思いをやってみてはどうだろう。
そうした史実を探るのも、鉄砲愛好者に別の素晴らしい楽しみをもたらしてくれるかもしれない。