ドイツ第三帝国がヴェルサイユ条約を破棄、空軍の再建にも踏み出したのは1935年3月。
ジェット・エンジンの開発を進めていたドイツは、次にロケット・エンジンの実用化にまで、手を伸ばそうと目論んでいた。
1931年にデッサウ基地から、液体燃料ロケットの発射実験に成功してから2年が経過、早くもパイロットの搭乗が検討されていたのだ。
陸海両軍は、旧来の軍需産業が研究機関を主導していたのに対し、航空機産業は新興だったのが幸い、ゲーリング元帥自らが陣頭指揮を取り、政府・空軍省がリードして研究開発に勤んだ相違が大きい。
ひとつには、対立して来たシュペーア軍需相を牽制すべく、ゲーリングが研究機関を掌握する必要があったと推察される。
ロケット・エンジンは、予め内部に組み込んだ酸化劑を燃料と混合燃燒させる方式で、空気を必要としないから、水中や大気圏外でも推進可能となる。
液体燃料ロケットの構想は、ロシア皇帝暗殺計画に連座して処刑された、チオルコフスキーが考案したとするのが通説。
このアイディアを、実験で立証したのが米国のゴダード。
しかし、第一次大戦の終結とともに、開発は頓挫を余儀なくされた。
ドイツにとっては、幸運だった。
ゴダードと並行、ドイツでも、ヘルマン・オーベルトらが研究を進めていたのだ。
1917年の時点で、当時の陸軍省にロケットの兵器化を進言していたという。
面白いのは、フリッツ・ラング監督の先駆的なSF映画「月世界最初の女」の宣伝のため、小型模型の発射実験を披露しようとしたものの、この時は失敗の憂目を見たという。
ロケットに注目した陸軍兵器実験部は実験を重ね、1942年にV2として結実する。
パリはもとより、ロンドンまで射程に収め、14メートルの巨体に1トンに及ぶ高性能爆薬を搭載した「究極兵器」、ミサイルが誕生したのだ。
当初、ヒットラー総統はV2号より爆撃機による空襲作戦に執心していたらしいが、この新兵器の特性を買ったシュペーアの進言により飜心。
V2はロンドン、ベルギーのアントウェルベン攻撃にほぼ集中する形で実戦投与されたが、いかんせん、燃料の供給が追い付かなくなってしまう。
計画では、5千基を発射する予定だったが、実際にはその6割に留まったらしい。
一方、長距離爆撃機の開発を期待されながら果たせなかった海軍も、ミサイルへと方針転換した。
20年代から、パウル・シュミットが研究して来たパルス・ジェット・エンジンは、開閉弁の働きで一定時間ごとの爆発が循環させる方式で、シュミット自身はまず、空中魚雷の推進方式として提案したという。
30年代に入ると、フィーゼラー社に委託、プロトタイプとなる Fi103 が製作される。
V2と異なり、短い翼を具え、ずんぐりしたフォルムの飛行兵器だった。
ここから発展した量産タイプが、V1だ。
1944年6月13日からV1による攻撃が開始された。
全長8メートルほど、時速640キロで最高高度は2キロ、射程距離は最大400キロにまで及んだ。
V1はかなりの部分が木製で、廉価に済んだ。
V2は、V1の7倍の経費を要し、時間も3倍以上かかったという。
既に不足していた燃料の点でも、V1が国内調達が可能だった廉い石油に対し、V2はアルコールや液体酸素だったので、より高く付いた。
加えて、V1は無線誘導しないので、電波で妨害される心配はなかったのだ。
多方、マッハ4の超音速で飛ぶV2は、対象をより破潰する大きな戦果が望めたし、速度の遅いV1を阻害する対空砲火や防空阻塞気球ケーブルなど、敵側の対抗措置も、V2にはほとんど影響なかった。
同様の兵器が並立する、この奇妙な状況は、ひとえに空軍と陸軍の対立に起因する。
空軍はV1を飛行兵器と見做し、V2を弾丸と考えた陸軍も既得権益とばかり、手放そうとしなかったのだ。
大戦末期、V1にパイロットを搭乗させる計画が持ち上がったが、実験段階に留まったという。
但し、ロケット推進装置を用いた航空機は、他で極秘裏に開発が進められていた。
1944年夏、空軍省の開発責任者に厳命が下った。
連合軍の激しい空爆に対抗すべく、迎撃機の製作が求められたのだ。
それも廉価で、しかも即急に。
戦局は逼迫の度を増すばかりだったのだ。
苦肉の策として具申したのが、実にユニークなアイディアだった。
まず、音速近くまで達するロケット推進式の航空機にミサイルを裝備、上空から、敵機の進路にミサイルを発射する。
ナッテルと名付けられた試作機は、発射台から垂直に打ち上げられ、地上からレーダーでコントロールされる。
敵機がパイロットの視界に入ったら、手動操縦に切り換え、目標に数百メートルまで接近。
機首のロケット弾搭載部を切り離すと、急旋回。
そのまま滑空して降下、安全な高度で初めてパラシュートを開き、脱出するというのが、当初の計画だった。
しかも、機体をも回収して再利用する予定だったという。
しかし、脱出準備のため、機種と風防を事前に脱落させる必要があったので、パイロットは気流に晒され、極めて危険だった。
事実、たった一度の有人飛行実験では、打ち上げられてから、僅か150メートルに達した時点で風防が破損、機体もろとも粉微塵に消散したという。
何しろ機体の過半は木製の上、釘や膠(にかわ)で安直に繋ぎ合された、まったく心許ない構造だったのだ。
空軍の開発計画の中で、今なお、関心を集めるのは、リピッシュやホルテンが手掛けた、三角翼機だろう。
アレキサンダー・リピッシュは、三角形でも飛行可能と証明するため、布張りのグライダーから始め、果てはロケット・エンジンを搭載した試験機まで生み出した。
全長6メートル余り、翼長18メートルのリピッシュDM1は、ほぼ無尾翼、後尾から先端へ垂直安定板が鋭角的なカーブを描く、特異なフォルム。
同じく三角形のホルテン機も、最初は木製グライダーから。
後継機になると、翼の表面にプラステックを塗布したり、翼全体をこの新素材で作るなど、試行錯誤を繰り返した。
これはトロナールと呼ばれた、一種のプラステッィク・シートであり、軽金属製の翼の時期もあった。
遂に終戦前には、ジェット・エンジンを備えたホルテンHo229を開発。
こちらも全長8メートル弱、翼長17メートルと、リピッシュとほぼ同じ規模の機体ながら、両翼に30ミリ機関砲を裝備した戦闘機だった。
1947年、米国でケネス・アーノルドが正体不明の光る飛行体を目撃したと発表、騒然となった。
「空飛ぶ円盤」ブームの始まりである。
実は、パイ皿を半分にした形に、後部に突起が付いていたというのが証言の内容だった。
当時のパブリシティ写真を見ると、その再現図は円盤形ならで、シルエットは流線型の三角形。
つまり、第三帝国が開発していたこれらの三角翼機だった可能性が残るのだ。
今日の、米空軍のステルス戦闘機のデザインを見れば、当時から米国内で試作が続いていたと考えても、何ら不自然ではない。
戦中から米国は、ペイパー・クリップ作戦と称して、ドイツ国内の科学者に内通していたし、戦後を待たずに、フォン・ブラウンをはじめとする多くの科学者が雪崩を打って亡命を余儀なくされたのは広く知られていよう。
ナチス・ドイツを破った米国の前には、早くもソ連という新たな敵が立ちはだかっていた。
冷戦の幕開けである。
ちなみに、続く50年代までに流行する、UFOをテーマにした映画も、背後にあったのは冷戦構造であることを見落としてはならない。