フランス、ブーローニュの対英侵攻作戦の前哨基地で、闇夜に紛れて歩哨が立て続けに刺し殺される事件が起き、現場には必ず、印刷されたカードが残されていた。
当然ながら皇帝は、廷臣に犯人捕縛の厳命を下すことになる。
ミステリの巨匠ジョン・ディクスン・カーの歴史冒険小説「喉切り隊長」は、帝位に上ったナポレオンが、名実ともにヨーロッパの霸者を目指し、残る敵国・英国へ攻め込まんと狙っていた、19世紀初頭が舞台となっている。
これだけでも珍しい設定だが、更に興味深い点があり、この時、フランス軍は、飛行機が発明される1800年前半に、なんと航空作戦を準備しているのだ。
ライト兄弟の有人・動力飛行機は1903年、先立つリリエンタールによる最初の試験飛行でも1891年である。
訝しく思う向きもおられようが、実際にフランス軍はこの時、既に航空部隊を編成していた。
カーの設定は、史実にも適うが、ただ、航空部隊がつかう兵器が飛行機ではなかっただけ、実はフランスの航空部隊は、気球を使っての作戦展開を模索していたのである。
気球の発明
気球の発明者としては、フランスのモンゴルフィエ兄弟が記憶されるが、彼らが最初の有人飛行が成功した1783年より早く、新大陸で気球を構想していた人物を忘れてはならないだろう。
18世紀初頭、ポルトガルの聖職者デ・グスマンは、当時の植民地ブラジルから、気球のプランを認めた特許状を本国の国王に送ったという。
「パッサローラ」と名付けられた気球は、幌馬車のように上部を帆布で覆った舟のようなフォルムで、内部の送風管から帆に風を吹き付けるという、ユニークなものだった。
もし実現していたら、航空兵器の歴史も一変していただろう。
グスマンは異端のそしりを受け、失意の内に病死し、この願いは果たせなかった。
気球には、往時より数多くの版画や絵画によって大衆にまで喧伝されたことから、物見遊山の乗物として、どこか長閑なイメージが付きまとう。
しかし、モンゴルフィエの気球も、元を正せば、戦争に起因していたらしい。
当時のヨーロッパは列強が群雄割拠、戦火の絶え間がない時代だった。
アメリカの独立戦争がヨーロッパにも飛び火、ジブラルタルを巡って、英国とスペインが争う。
そもそも、16世紀末にアルマダ海戦で無敵艦隊が大敗、大西洋、そして世界の制海権を英国に奪われた上、王位継承への干渉戦争の結果、スペインはこのイベリア半島南端の島を失った。
一矢報いるべく、スペインは独立戦争を好機と見て挙兵、既に英国に宣戦布告していたフランスと組み、48隻の艦船で、ジブラルタルを包囲したのだ。
ところが、敵もさるもの、難攻不落の要塞は陥落せず、戦いは4年の長きに渡った、この時、母国のこの苦戦に心を痛めていたモンゴルフィエは、勝利のための奇策を思い付く。
焚き火の炎が火の粉を舞い上がらせるのにヒントを得て、兵隊を空中に浮かせたらどうかと考えたのだ。
もちろん、かくも荒唐無稽なアイディアは実現せず、フランスとスペイン両国の目論見は烏有に帰した。
彼は、煙の中に物体を空中に浮遊させる「ガス」が存在すると誤解はしたものの、模型による実験を経て、見事に気球の製作に漕ぎ着けたのだった。
モンゴルフィエの気球が熱気球だったのに対し、水素気球はと言えば、同じ1783年に早くも発明されている。
ジャック・シャルルとロベール兄弟は、水素の特性に注目、モンゴルフィエに遅れること僅か数か月で、有人飛行実験に成功した。
続けて開発に貢献したブランシャール、ロジェ、ロマン等とも、いずれもフランス人であり、気球はフランスの発明品と言えるのかもしれない。
航空部隊の設置
フランスは英国の力を削ぐべく、北米植民地の独立を応援したのだったが、皮肉にも、この啓蒙思潮の波がヨーロッパを直撃、革命の気運が高まってしまう。
結局、国王ルイ16世は断頭台の露と消え、ブルボン朝は断絶し、新兵器の開発は、革命政府が担うことになる。
フランスの革命は、干渉を企むオーストリアやプロシャ、果ては英国やロシアまで巻き込んでの大戦争が始まり、不安定な新政権は二転三転しながらも、これら大同盟諸国と戦火を交えた。
この最中、フランス政府は気球の開発に着手するも、前線が反撥、新兵器の開発より、兵士の動員と投入する要望が相次ぎ、なかなか陽の目は見なかった。
面白いことに、当初は四角い気球が構想されていたといい、モンゴルフィエが最初に作った実験用模型も、長方形の骨組に布を張ったフォルムだった。
ムードンに実験隊が設置され、ようやく1794年に航空部隊の設置を決定、ひとつには、戦局の好転があったと思われる。
80万人という兵力は敵を圧倒、国内に侵入した敵軍を押し出すのみならず、フランドル、ライン河左岸も手中に収め、加えてピレネー山脈を越え、スペン領も脅かす程の勢いを得ていたのだ。
気球は、同年6月のフリュリュスで実戦配備、実に9時間に渡り、オーストリア軍を偵察、フランス共和国はこの戦いにも勝利を収めた。
発明から10年余りで、戦捷の凱歌を上げるに、大いに貢献したのだ。
しかし、この史上初の偵察機も、参謀たち、そして政府の評価は至って低かったが、気球はフランドルと、プロシャのそれぞれの防衛線に投入された。
ブリュッセルの戦いでは真価を発揮できなかったものの、アーヘンやフランクハイムに基地まで設けた東部戦線では活躍。
マインツ、マンハイム、シュトゥットガルトなどの戦役で、気球は敵情の探索に勤んだ、この時期が、航空部隊の頂点だったのだろう。
1796年にはヴュルツブルクの戦いで敗北、航空部隊はオーストリアの捕虜となり、気球も捕獲されてしまう。
1798年、ナポレオン将軍によるエジプト遠征の折も、地中海を南下、アブキール港に入った輸送艦は気球を積んでいたが、英国とのナイル海戦に破れたため、実戦の偵察には用いられなかった。
但し、見世物然と、恐らくはカイロ付近で空中に飛ばしてみせるデモンストレーションが披露されたとする資料もある。
結局、航空部隊は1799年には解散するが、未だ、飛行機は実用化されていない時期だけに、理由は覚束ない。
97年にオーストリアとの和議が成立、既に大同盟も破綻していたから、フランスは勝機に恵まれた時期ではあった。
ただ、政府は混乱し、占領地の共和国司令官が勝手に「独立」を宣言する騒ぎさえ起こしていたから、この政情不安が軍制にも影響したのかとも思う。
ちなみに、ナポレオンもこの混乱に乗じたればこそ、実権を掌握するに至ったのだ。
ポピュラーな存在となった気球
19世紀も半ばを過ぎると、気球は、ヴェルヌの空想科学小説「気球に乗って五週間」や「八十日間世界一周」にも取り上げられて、大衆にもポピュラーな存在となった。
これらの小説も、40メートルにも及ぶ巨大気球を運転していた航空家ナダールが触発したとの見方もある。
ナダールは当時先端のメディアだった写真の撮影でも活躍、貴族や富豪に限られていた肖像画に代わる、ポートレイト写真を一般に普及したことで知られる。
気球を使った空中撮影を世界で初めて成し遂げた点で、特筆すべき存在だ。
当然のように軍事にも由縁が深く、1870年、またもスペイン王座継承に端を発した干渉が、普仏戦争にまで拡大した際、気球部隊を編成、偵察に従事した。
アルマン・バルベス号、ジョルジュ・サンド号、アルマン・バルベス号の3機から成る部隊は、敵情を視察するばかりか、得意の写真撮影を駆使しての地図作成、また軍事郵便大いに貢献する。
パリが包囲されると、内務大臣ガンベッタの救出にも活躍し、1852年にジファールが、蒸気機関を備えた飛行船の試験飛行が成功すると、軍事用気球は影を潜めていく。
しかし、ジファールもまた、フランス人だったにもかかわらず、飛行船を軍事に転用したのは、普仏戦争に勝利したドイツだった。