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日本の戦闘機開発のこれから

2014年度の航空自衛隊緊急発進の回数は、過去2番目に多いとされる943回を記録した。

冷戦期並のスクランブル回数の原因は主にロシアと中国による領空侵犯だだったが、情報収集目当てが多いロシアに対し、中国に至っては戦闘機で人の家に上がり込んでくるのだから、喧嘩する気満々であると受け取れる。

依然として世の中は物騒で、ウクライナ問題やイスラム過激派と言った物騒なニュースは、毎日のようにこの遠い島国のお茶の間に流れて来る、海の向こうのことと思いがちだが、忘れてはいけない。

日本人もすでにテロの標的にされ、国内ではすでに尖閣諸島や竹島と言った中国や韓国による領海侵犯、そのような許すまじき行為が日常の影に起こっているのだ。

しかし、そんな時に緊急発進してくれるのが、航空自衛隊の戦闘機である。

戦後70年、日本は何となくお金の力で直接的な戦闘をしなくて済んできたが、そのせいか兵器や兵士と呼ばれるものを嫌悪しがちである。

自国のために働いてくれる人が、そのような手段をとり、どのような装備を使っているのか、些か肯定的に関心を持ってもいいと思われる。

「知りたいけど、どこから入ればいいか良くわからない」、そんな人のために、今回は日本の防衛の要=戦闘機についてその歴史とエピソードに触れながら、紹介していきたいと思う。

では、そもそも日本にはどのような戦闘機があったのか、まずは歴史から見てみたい。

そもそも戦闘機っていつ生まれたの?

第一次世界大戦の当初、戦場で使われる飛行機は大抵偵察機の役割が多く、武装を積んでいないのが常であった。

しかし偵察活動が戦局に大きな影響を与えるようになり、敵の偵察を妨害するために、搭乗員同士が工具や瓦礫を鉄器に投げつけるたりと空中で喧嘩騒動が起きるようになった。

その延長線上で、飛行機に初めて機銃が搭載される瞬間が訪れる。

1915年、フランス軍がモラーヌ・ソルニエLという飛行機に固定銃を搭載し、ドイツ軍機を撃墜。

事実上、空戦の始まりとなった

日本で有名な戦闘機って何?

1921年に日本では国産戦闘機が初飛行した。

機体名は「一○式艦上戦闘機」で、全長6.9m、全幅8.5m、全高3.1m。

数字を見る限りかなり小型で、航続時間も2.5時間、最大速度は215㎞/hである。

移動時間を差引と戦闘できる時間なんて、たかが知れているスペックだったが、数年後に日本は、第二次世界大戦初頭の空を掌握する、国産技術の永遠なる結晶、脅威の機体「ゼロ戦」を生み出した。

零式艦上戦闘機=ゼロ戦の名は、まったく歴史や軍事関連のトピックに関心のない人でも知っているはずと同時に、この名を聞くと無条件に「特攻」という悲劇的なイメージを抱く人間も多い。

特攻のイメージが定着してしまっているこのゼロ戦であるが、実は太平洋戦争開戦当初、世界でも群を抜いた性能を持つ戦闘機として恐れられていたのだ。

そのエピソードと特徴を以下にまとめてみた。

国産技術の結晶「ゼロ戦」のエピソード

1,「ゼロと格闘戦をしてならない

1942年にゼロ戦が鹵獲され後、アメリカ軍に暗黙の了解とされて来た言葉だ。

物量で勝っていたはずのアメリカ軍から弱気な発言があったとは、戦後の人間の感覚としては些か不可解に思えるが、ゼロ戦は本当に驚異的な機動力を有していたのだ。

そのエピソードは1940年に起こった支那事変の記録、つまりゼロ戦の初陣にある。

その戦果は華々しいもので、13機のみの出撃にも関わらず、1機も撃墜されずに中国軍の戦闘機を27機も撃破したのだ。

当時ゼロ戦に遭遇した中国軍は経験豊富な先鋭部隊であったのだが、その手練れ達がたった13機の戦闘機に自軍27機を失った理由は他でもない、火力とスピードが優るゼロ戦に格闘で歯が立たなかったのである。

2,圧倒的な航続力

もう一つ卓越していたのは飛行距離である。

巡航速度で6時間以上という驚異の航続力はフィリピン攻略戦で伝説的なエピソードを残した。

襲撃されたアメリカ軍は当然ながら、まさかゼロ戦が台湾から飛んできたなど思っておらず、慌てて日本軍空母探していたと言う。

長距離飛行はパイロットに負荷がかかる荒業ではあるが、そんな大胆な戦法が可能だったことこそ、紛れもなくゼロ戦が無敵と呼ばれた大きな理由であった。

このようにゼロ戦は世界を震撼させた戦闘機であったが、戦争が進むにつれアメリカ軍の技術がゼロ戦を上回り、ゼロ戦伝説は終わりを告げることとなった。

ゼロ戦の後継機は一応は開発されていたのだが、実戦に間に合わず、終戦を迎えてしまい空に羽ばたくことはなかった。

戦後の日本の戦闘機開発はというと、敗戦後約10年間兵器の製造が禁止されていた。

ついに開発ができるという頃には完全に開発競争から出遅れ、民間の飛行機ですら輸入が当たり前と言う時代。

最近になってやっと国産旅客機すらやっとロールアウトし、騒いでいる状態で、沈黙の10年間が戦後70年の飛行機製造に及ぼした影響は大きいと言える。

現在における航空自衛隊の主力機

F-2

2000年から運用を開始された現役の航空自衛隊主要装備。

By: nubobo

戦闘機と現在は区別されているが、以前は「支援戦闘機」と分類され、この機体の開発に至るまでの前段階「FS-X」では、念願の国産戦闘機として開発される予定だった。

しかし、アメリカの横槍と技術的な問題でに国際共同開発へと至る、開発企業は三菱重工とロッキード・マーティン社で、アメリカのF-16戦闘機を日本の地理や航空自衛隊という組織に合わせて改造開発してできたのが、この戦闘機だ。

部分的には日本も卓越した技術(炭素系複合素材の導入やレーダー技術など)を持っていたのだが、エンジンなど主要な部分はやはりアメリカに頼らなくてはならなかった。

以上のことから、国産開発のノウハウ不足とコストパフォーマンスの悪さを浮き彫りにしたきっかけである機体と言える。

そんなF-2戦闘機の特徴は機体構造の軽量化が図られており、高い旋回性と加速性を合わせ持つ、非公式の愛称は「ハイパーゼロ」。

日本の新たな挑戦「国産ステルス機」

前途多難な日本の戦闘機開発の歴史であるが、いつまでのアメリカに頼ってばかりではいられない。

意地でも開発先進国においつくために、日本の新たな試みが最近披露された。

目指すは国産戦闘機F-3の開発

2015年夏に歴史的初飛行を迎えるのが、国産ステルス試作機「先進技術実証機”ATD-X”(通称・心神)である。

ゼロ戦の辿った製造経路を経て誕生したため、「平成のゼロ戦」と一部の人々からは呼ばれている。

しかし、このATD-Xは飽くまで試作機のため、サイズも偵察機程度のもので、もちろん銃器の搭載はなく、公開されている機体データは、全長14m、全幅9m、全高4.5mと小型である。

それ以外の詳細については残念ながらまだ不明。

それにしても、日本のお家芸である最新鋭の複合素材や精密機械を使用するのであれば、それなりに高いステルス性と機動力を保持しているのは間違いないであろう。

順調に開発の妥当性が認められれば、念願であったF-2の後継機である国産戦闘機F-3の開発に着手できる日も遠くはない。

F-3は他の国に頼るしかなかったエンジンに関しても国産と言う計画であるから、何が何でもこの実証機の飛行テストが良い結果を残してくれとを祈るばかりだ。

以上が戦時中から現代にかけての日本の戦闘機に関するエピソードである。

ステルス試作機の今後が気になるところだが、歴史的にも優れた戦闘機を作れた日本なら、世界から出遅れた分をいつか取り戻してくれると信じている。

今日を国を守ってくれる全ての方々に敬意を表し、今後を見守りたい。

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