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古代の重戦車軍団

古代の中東、フェニキア人の都市国家は地中海文化を謳歌していた。

そのフェニキア人の植民都市の一つに、カルタゴがある。

現在のチュニジアに興ったカルタゴは、紀元前5世紀頃には地中海を縦横に航行する海洋国家に発展した。

ギリシアの都市国家と、地中海の覇権を争ったカルタゴは、紀元前3世紀にはシチリア島にまで進出。

今度は、ローマと角を突き合わせることになる。

当時のローマは、アドリア海対岸にこそ領地を得てはいたが、まだ半島内に留まる新興の、都市国家連合に過ぎなかった。

というのも、半島南端には「マグナ・グラエキア」と呼ばれる、ギリシアの植民都市が残っていたため、半島の統一は容易でなかったのである。

ハミルカル・バルカ

シチリアのメッシーナに進駐したカルタゴ軍をローマ軍が攻撃、ポエニ戦争が始まる、紀元前264年のことだ。

これからほぼ110年に渡り、両国はシチリアの領有を巡り戦闘が続くのだ。

最初の23年間が過ぎて、カルタゴは敗北、ローマは地中海北岸全体と、その制海権を手中に収めるに成功する。

ローマは共和制だったため、市民が積極的に戦費調達に協力、一方のカルタゴでは、貴族たちが私財を注ぎ込むのを拒んだという、大きな相違もあった。

戦費不足に加え、莫大な賠償金の要求は、カルタゴ側に傭兵の反乱さえ引き起こし、混乱に乗じたローマは、カルタゴに残されたコルシカとサルディニアを奪取する。

この反乱を鎮圧したのが、将軍ハミルカル・バルカだった。

ハミルカルは、敗戦の結果、制限されたイベリア半島への進出を秘かにたくらむ。

太古の神バールを祠る神殿に幼い息子を連れていき、スペインへ同道してもよいか、占いに赴く。

一説には、ローマ打倒を宣誓させたもいう。

ハミルカルは、スペインにカルタヘナと名付けた植民地を築いたものの、志半ばに病死してしまう。

ハンニバル将軍

ハミルカルの子供も成長して、将軍の地位を得る。

この「バール神の喜び」を意味する名を持つ強将こそ、ハンニバル・バルカだ。

カルタゴの捲土重来を期したハンニバルは、世界戦史上でも稀な、破天荒な作戦を構想する。

父親が遺したカルタヘナから、まずピレネー山脈を越え、フランス南部を経て、更にアルプス山脈を踏破、ローマの背後から襲撃するという計画だ。

距離にして、2400キロを越す、文字通りの長征だった。

作戦実行に先駆け、ヨーロッパ各地のゴール人から使者を送らせ、主にポー川流域の情報を集めたという。

ガリア人は、ゴール人、ケルト人とも呼ばれ、同一言語の民族だが、各部族が分立してまとまらず、多くがローマとは反目していた。

ボィイ族とインブレス族は、ミラノ獲得に際してローマと戦闘している。

ガリア人の協力は不可欠だったから、反抗の意志を示す部族には、ハンニバルが援助を約束したのだ。

ハンニバル軍と象

ハンニバル軍の装備は、刀剣、槍、投石機に加え、特筆すべきは象であろう。

象は、1世紀も前にアレクサンダー大王に対してアケメネス朝ペルシアが使い、大王没後の後継者戦争でも、より大規模に兵器に用いられた。

また、ポエニ戦争より少し前の紀元前280年、ギリシアのピュロスがローマとのヘラクレアの戦いに、象を投入していた。

先の第1次ポエニ戦争では何頭かの象を鹵獲していたから、ローマは既にその存在を知っていたことになる。

しかも、ローマでは、象のことを「ルカニア牛」と、軽蔑のニュアンスを含めて呼んでいたという。

従って、ハンニバルが指揮する、この第2次戦争の時点では「秘密兵器」ではなかった。

とはいうものの、ローマ人は象を飼い馴らすことはできなかったし、これに対抗するだけの強力な兵器は開発していなかった。

馬はひどく恐れたし、ローマ兵士も警戒は怠らなかったのだ。

平野でなければ、象の行動は制限されたので、ローマ軍は丘陵地で野営して、急襲を避けたらしい。

イベリア半島のカルタヘナからエブロ川、ギリシア人の植民地だったアンブリアスを経由して、ピレネーを越え、南仏へと、ここまでのルートは、ほぼ異論がないらしい。

ただ、ローヌ川からアルプス、そして、イタリアへ至るルートには諸説あるという。

一次史料となる同時代の記録そのものは失われてしまった上、今日まで伝わる書物に引用された文言も、翻訳や書き写しの過程で、地名の同定が困難になっているのだ。

古代の重戦車

ハンニバルは、37頭の象を連れて、スペインへ渡った。

驚くべきは、兵士がほぼ半減するほどに危険だったローヌ川の渡河でも、象は生き残ったと推定されることだ。

歴史家が伝えるところでは、ハンニバルはまず最初に、幅数百メートルの川に、60メートルほどの桟橋を設けた。

By: YoTuT

桟橋の突端に長い筏を縄で結び付け、その上に土を盛り、地面から続いているように、象に見せかけた。

2頭のメス象が怪しまずに筏に乗ると、安心したオス象が後に続いたという。

象が筏に移ったら、縄をはずして、対岸から綱で引いて、川を渡らせるに成功した。

中には、驚いて筏から水中に降りてしまう象もいたが、シュノーケルのように水面に鼻を突き出して呼吸して、生き延びたという。

しかし、続くアルプス山脈こそ、本当の難所だった。

記録から読み解くと、恐らくは現地で雇った案内人が間違えたせいで、峽谷を通り、下りも急な坂から成る、トラヴェルセッテ峠の通過を選択したために、甚大な被害が出ただろうと推定されるのだ。

行手を阻む、巨大な岩石も取り除く必要があった。

ハンニバルは、岩の下から火を焚いてから、酢に浸すという方法を用いたという。

この碎石方は、プリニウスなど、古代には良く知られていたらしく、中世ドイツのトンネル工事に関する文書にも、同様に酢への言及が見られるらしい。

この後、肝腎の象に関する記述が極端に減ることから、この難関で滑落、または餌の不足から、ほとんどが損失してしまったのではないかと考えられる。

しかし、軍勢の過半を失っても、アルプス中腹の雪原からポー川を越えて、突然に現われたカルタゴ軍の攻勢に、不意打ちを受けたローマは狼狽、敗退する。

やはり、突拍子もない奇襲作戦が大いに効を奏したようだ。

ローマとの戦い

ローマの将軍スキピオは負傷し、機転をきかせた息子が救出しなかったら、カルタゴの手に墜ちたかもしれなかったほどだった。

勝機に乗じたカルタゴは兵の損失を捕虜で補給、イタリア半島の中央まで進軍。

途中、待ち伏せするローマ軍をやり過すため、角に松明を結び付けた牛の群を放ち、注意を引き付けておいて、難無く通過する奇手も繰り出している。

戦闘は実に15年にも渡った。

しかし多勢に無勢、快進撃を続けるカルタゴ軍も2万足らず、ローマは75万の兵士を温存していたのだ。

しかも海路、ローマがカルタゴに攻め込むと、本国はあっさり降伏してしまう。

万事休す、ハンニバルはイタリアを後にする。

母国には戻れないので、シリア、クレタと転々と亡命を続け、最期は自ら毒杯をあおっての自決だった。

ところで、ハンニバルが編制した10万を越す兵士は、そのほんとんどが占領地から集めた傭兵だった

古代ギリシア、ローマとも、当初は、成年男子の土地所有者である「市民」が自ら武器を取り参戦していた。

軍務は市民の義務であり、さもなくば、参政権を持つ市民として認められなかった。

しかも、武器も自費で調達するのが基本だったし、最初は職業軍人など存在しなかったのだ。

但し、当時の人口構成比で市民が占める割合は数パーセントで、例えばスパルタなら、総人口30万人に対して市民は1万人に満たなかった。

このような階層から成る都市国家では、次第に傭兵が主力となる。

カルタゴもまた、航海貿易で栄えた商業国であり、経済の繁榮が、傭兵への依存を高めたことは想像に難くない。

ライター(boroneko)

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