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将兵の士気を保つための売店、酒保

By: Ben Salter

旧日本陸海軍における酒保とは

旧日本海軍の場合は軍艦内に、旧日本陸軍の場合は連隊内に設置された物品販売所である。

販売されている物品は多岐にわたり、干し菓子・缶詰・瓶詰・漬け物といった食料品に始まり、日本酒・ビール・ウイスキー・サイダー・ラムネ・煙草といった嗜好品、歯磨き粉と歯ブラシ・ちり紙・石鹸・コンドームといった衛生用品、鉛筆・便箋・封筒・インクといった文具用品、手ぬぐい・下着・裁縫用具まで販売されていたという。

さすがに現代の大手コンビニチェーンには及ばないにせよ、戦前にそれに匹敵するだけの品揃えをしていたことは特筆される。

旧日本海軍の酒保の仕組み

海軍の酒保は、軍艦内の兵員居住区の近くに設けられた艦内施設で、販売規定は艦によって異なる。

酒保の面積も当然艦ごとで異なり、戦艦「長門」の場合は数メートル四方の金網に囲われた小さなカウンター越しにやりとりをした。

酒保は酒保委員によって経営され、副長を委員長に据え、数名の士官と主計長(主計尉官または主計兵曹長)で委員が構成された。

酒保の店頭で実販売に当たるのは委員ではなく、酒保長と呼ばれる下士官と、それを補佐する兵である。

酒保長の任期は二ヶ月であったが、大金を扱うため平常の軍務とは違う緊張を強いられる重労働であったらしく、酒保の当番はどちらかというと嫌がられる傾向にあった。

酒保長と補佐の兵には任期終了後に特別手当が出されていたほどである。

酒保はおもに所属艦の下士官達が自腹で出し合ったお金を元手に運営され、商品は入港した港で委員が仕入れを行った。

仕入れは民間業者から購入するケースももちろんあったが、海軍兵員の扶助組織である財団法人・海仁会は卸値価格そのままで酒保に販売するため、海仁会から購入することが多かったとされる。

酒保での購入は原則的に現金ではなく、各人の伝票に購入したい品物と数量を記入し、酒保のカウンターで伝票と品物を交換して居住区に持ち帰る方式で、案の定というべきか、階級が上の者は自分で買い行かずに、下級兵を使い走りに買いに行かせるのが常態化していたようである。

酒保の品物はあくまで商品の扱いなので、当然ながら価格が設定され、支払いは伝票から各人が購入したものを月ごとに合計し、給与から天引きされることとなっていた。

天引きできる額には月額俸給のうちいくらまでと上限があったため、実際には現金販売も黙認されていたようである。

例えば戦艦「陸奥」の場合は、天引きできるのは月額俸給の半分までと規定されていた。

旧日本陸軍の酒保の仕組み

陸軍でも酒保は設けられ、連隊ごとに酒保が設けられた。

その導入は明治維新後の日本陸軍創設の際からなので、明治後期の導入とされる海軍よりもむしろ古い

海軍の酒保との違いは、購入は伝票ではなく現金払いが原則とされていたこと、飲食物の一部は民間業者が受託販売を行うケースもあったこと、飲食物の場合は持ち帰らずに、酒保に設けられていたサロンのような大部屋内で飲食するように決められていたことであろう。

酒保委員が設けられて委員長・委員・主計長で構成され、酒保長とその助手が実販売を担当するのは、海軍と大きな差はない。

ただし、仕入れや販売で民間業者への依存度が海軍に比べてかなり大きかったためか、取引業者からの付け届けも頻繁に行われていたとされ、酒保の当番は嫌がられていた海軍と違い、陸軍の酒保の当番はかなり旨味が多く喜ばれていたのは対照的である。

戦時になり海外に出征すると、酒保も野戦酒保として連隊本部の駐屯地に臨時に設営された。

基本的には内地の酒保と差はないが、戦地であるため内地のように民間業者に依存するわけにはいかなくなるため、旨味の多い当番から一転して、品物の仕入れに壮絶な苦労を強いられる激務だったという。

酒保で売られていたもの

スイーツをはじめとした生もの食材は、大量保管できる設備が限られるため、さほど多くを取り扱う事は出来なかったようである。

しかし海軍の場合は補糧艦の「間宮」と同時入港した場合、虎屋の羊羹をも超える美味とされた間宮羊羹やアイスクリームなど、「間宮」手作りのオリジナルスイーツを酒保に仕入れることが出来たので、大いに喜ばれたという。

また入港した港のご当地スイーツを仕入れるケースもあり、何を仕入れるのかは酒保委員の腕の見せ所であった。

伊勢湾付近に入港した際には、赤福を仕入れることが定番だったようで、鹿児島付近だとボンタン飴が人気だったようである。

陸軍の酒保では生もの食材は民間業者が受託販売するケースも多かったようで、饅頭など和菓子を始め、うどんのように主食系のものまであったようである。

酒類は販売量に規定があり、海軍の場合は日本酒ひとり1合まで、ビールは1本までとしている艦が多い。

また海軍で需要が多かったウイスキーは海外製であったが、太平洋戦争が開戦すると海外からのウイスキーの輸入が途絶えたため、仕入れには相当窮したようである。

幸い、寿屋(現:サントリーホールディングス株式会社)が開戦前に味が大幅に改善された国産ウイスキーである、サントリーウイスキー12年(現:サントリー角瓶)の市販化に成功していたため、ほぼ根こそぎ買い上げてウイスキー不足を穴埋めした。

サントリーウイスキー12年は、ウイスキーに肥えた舌を持つ海軍軍人からも味の評判は極めて良好で、国産ウイスキーとして角瓶の評価を不動のものとしたことはよく知られている。

煙草も取り扱いの種類は多く、「誉」「ゴールデンバット」「光」「チェリー」「鵬翼」が販売されていた。

とりわけ安価な「誉」は軍用煙草、いわば酒保限定商品であるが、中毒性を忌避してニコチン量が抑えられていたため、市販の煙草に慣れた兵隊からは安いが値段相応に不味い、と評判は悪かったようである。

家族への手紙を書く兵士や士官も多いため、文具用品も酒保には欠かせないもので、ドラマや映画などで戦場から手紙を書く云々という際には、用品は酒保で購入してきたと考えてよいだろう。

コンドームは陸海軍いずれの酒保にも販売されていたが、とりわけ海軍の場合はコンドームを所持していないと入港時に上陸が許可されなかったため、重要視された商品だったという。

性感染症に罹患して戦力が低下するのを嫌ったためで、これは陸軍でも同様であった。

陸軍の酒保ではわざわざコンドーム専用の自動販売機が作られて設置されることもあったようである。

旧軍の伝統がまだ色濃く残っていた戦後の自衛隊でも、コンドームの正確な使用法についての講習があったほどだというので、笑いごとではなく、軍隊にとって性感染症対策は極めて真剣な課題であることが、このことからも分かる。

太平洋戦争中の酒保

太平洋戦争が開戦すると、陸海軍の酒保も物資欠乏のあおりを受けて、品揃えは急激に悪くなり、陸軍に至っては通常の糧食や弾薬の補給さえままならない状況に陥ったため、酒保どころではなかったのが実態であり、戦争後期になると酒保から物品販売所へと名称も改められた。

海軍でも大型戦艦ではそれなりに品揃えも確保されていたようであるが、戦況が悪化するごとに酒保の品物は欠乏していった。

港で品物を仕入れようにも、いかにお金を積もうが品物自体が欠品でないのだから、どうしようもなかった。

そのため、軍から慰安用に配給される戦時特別給与品(戦給品)で酒保の品揃え不足を補うようになる。

酒保はかつてのような自由に品物を選んで買える売店ではなく、特定の品物について、班を通じて一律で支給(強制販売)するのが役割の部署に変化していった。

しかし物資がいかに欠乏しようとも、酒保の制度そのものは旧日本陸海軍が終焉を迎えるまで、必要な設備として存続し続けた。

前線での戦闘力を下支えするのは武器弾薬だけではなく、将兵の士気も大切な要素であると考えると、陸海軍において酒保は将兵のストレスを少しでも緩和して癒しを与え、士気を維持するのに欠かせない貴重な「戦力」だったのである。

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