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生死のはざまの戦場のユーモア – バトル・オブ・ブリテン編

少しの運、少しの判断が生死を分ける戦場。

そんな中でも欧米人はユーモアを忘れません。

これは日本人にはなかなかできないことです。

戦争の中だからこそ、重みのあるユーモアの一部を紹介したいと思います。

第二次大戦初頭、瞬く間にフランスを降伏に追い込んだヒトラーが、イギリス軍の航空戦力覆滅を画策した空の戦いがいわゆる「バトル・オブ・ブリテン」でした。

四倍の戦力があるドイツ軍に対して立ち向かうパイロットたちを讃えた、チャーチル首相の有名な言葉があります。

「人類の歴史の中で、かくも少数の人が、かくも多数の人を守ったことはない。」(Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few.)

これを聞いたイギリス空軍パイロットの一人、マイケル・アプルビー中尉はこう付け加えました。

そして、かくも安月給のね・・・

一方、ドイツのパイロット達は、傲岸にもチャーチルが徹底抗戦してくれることを願っていました。

あっさり降伏されては、自分たちの活躍の場がなくなってしまうという、いかにも軍人らしい理由でした。

そんなある日、英国のパイロットが捕虜になります。

そこに多数のドイツ軍パイロットが群がり、口々に問いただします。

ね、ね、チャーチルはどうしてます?

これに対し、イギリスのパイロットは慇懃に答えました。

「恐縮ですが、『チャーチルさん』とおっしゃってください。」

後には双方凄惨な殺し合いになりますが、初期はのんびりとしたものでした。

不時着して捕虜になってしまったドイツのパイロット、パウル・テンメ中尉が受けた応対もその一例です。

最初に連行された飛行場で、そこの下士官と朝食を食べるはめになったテンメでしたが、次に陸軍に引き渡されると、そこでも朝食を薦められたのです。

この日二度目ハムエッグを目の前にして、テンメが言ったのが次の一言。

「あなた方が軍相互間に、こんな軍議定書を交わしておられたとは知りませんでしたよ。」

ドイツ空軍がこの戦いの初期に投入したご自慢のJu87「シュトゥーカ」は散々な目に遭います。

そのパイロットであるカルル・ヘンツェ中尉は、やっとのことで生還しますが病院に直行。

彼の頭部には弾丸がめりこんでいました。

意識がもどったヘンツェに、摘出した弾丸を見せながら軍医は無表情のまま言いました。

「英国製の金属を輸入したのだから、関税を払わなくてはいけないな」

無論、イギリス空軍必死の迎撃に、ドイツのパイロットも常に命の危険にありました。

そのなかで、Me110のパイロット、ヘルベルト・カミンスキ大尉と、その後方銃手であるシュトラウヒ軍曹も、エンジンを二つとも撃ち抜かれて英仏海峡に不時着水します。

救命ボートを膨らませようとしますが、うまく膨らみません。

それもそのはず、ボートを膨らます気体が入った瓶をボートにつなぐのをシュトラウヒ軍曹が忘れていたのです。

怒ったカミンスキ大尉は、彼を命令違反のかどで10日間の禁錮刑に処する、と宣言します。

それに対してシュトラウヒ溺れながら答えました。

「大尉殿、その罰直を撤回していただけませんかっ。自分は今死にかけているんでありますから、考課表がきれいなまま、死にたいんであります。(ゴボゴボッ)

次の日、二人は無事味方に救助されました。

この戦いで、RAF(大英帝国空軍)には英国連邦であるカナダ、オーストラリア、ニュージーランドからも、少なからずパイロットとして加わっていました。

その他に活躍したのは、義勇兵として加わった外国のパイロットたちでした。

その国籍は、ポーランド、チェコスロバキア、アイルランド、アメリカ、パレスチナ、ベルギー、南アフリカ、フランス、南ローデシア、ジャマイカ、バルバドスと多岐にわたります。

そんなアメリカ人の一人、アンディ・マムダフは、ある日の空戦でMe110とやり合いました。

動きは鈍重ながらも重装備のこのドイツ機に撃ちまくられ、彼の乗機は穴だらけにされてしまいます。

ほうほうの体で帰還した彼を、同じアメリカ人のレッド・トビンはこう言って慰めました。

「こりゃあ、敵さんクルップ工場をまとめてお前にぶつけやがったんだぜ。」

また、普段の言動がいざという時にも冷静さを失わせませんでした。

後に国王ジョージ6世の侍従武官となるほど礼儀正しいピーター・タウンゼント少佐は、落下傘で脱出すると、自分が降下しそうな庭先で女中さんが2人口を開けて見ていました。

その時彼は、敵の機銃で左足の爪先を消し飛ばされていたのですが、彼女たちにこう言いました。

「失礼!私がそちらに参りました節には、何か手をお貸し願えましょうか。」

このように、自分が置かれた悲惨な状況を、さも何でもないという言い方をした例は他にも多くあります。

トム・グリーブ少佐は火の玉となってしまった自機のハリケーンから脱出したものの、全身の皮膚が焼け落ちるほどの重症で、一時は危篤に陥りました。

そのベッドに妻がとりすがり、「ああ、あなた、どうしてこんなひどいことに・・・」と声を詰まらせた時、夫は言いました。

ドイツ人とケンカをやらかしてね・・・

「見敵必戦」のイギリス人は、日本兵もびっくりの無謀な戦いを繰り広げることがあります。

パイロット達を敵の元へ誘導する管制官にもどうやらそれは感染してしまったようです。

ジョニイ・ケント大尉は味方主力とはぐれ、6機のポーランド人パイロットを率いて飛んでいました。

そこへ管制室から、150機からなる敵の大編隊を迎撃するよう指示を受けます。

驚いた大尉は、自分の隊は6機しかいないことを告げましたが、管制室からの応答には更に驚いたことでしょう。

「貴隊6機なることを了解!十分に気をつけてかかれ・・・」

気をつけたくらいでどうこうなる戦力差ではありません。

さすが「ビクトリア十字章」の国です。

BRITISH – CIRCA 1990: mail stamp featuring the Victoria Cross gallantry medal, circa 1990

1941年9月、ドイツ空軍は大編隊をもってロンドンに空襲をかけ、激しい空戦となりました。

特に15日はイギリス側は全機迎撃に向かうほどの激戦でした。

時代遅れな点がアドルフ・ガーラントの同情を誘った、デファイアント複座戦闘機まで駆りだされたのです。

各所で、体当たりに近い戦闘が繰り広げられました。

あちこちに脱出のパラシュートが多数開いていました。

降下しながら、あるポーランド人パイロットはわめきました。

「みんな、空挺師団がやってきたと思いやがるだろうな。」

このような空戦が日々繰り広げられているイギリスでは、民間人も何が落ちてくるかわからない危機に晒されていました。

しかし、彼らも軍人と同じようにユーモアのある言動を忘れませんでした。

例えば、ある農夫は自分の農地を見学料6ペンスで見学させたい旨を州の役所に申請しました。

宣伝文句は「南ケントで唯一、ドイツ機がまだ墜落していない農場」というものでした。

ロバート・エリオット少尉は脱出して降下した先で、農夫にこう言われました。

「あんたがドイツ人だとよかっただがね。おれたちゃあんまり沢山のイギリスのパイロットを助けてるもんだで。」

また、サセックス州のアーレット家では、令嬢お付の女中が令嬢に話しかけていました。

「さあさお嬢様、デザートのプディングを召し上がれ。あらあら、ほら、裏のお庭を機関銃で撃っておりますわ」

このように、イギリスの戦闘員も国民も、ユーモアでオブラートのようにくるんだ不撓不屈の精神で国難に当たったことが、ドイツに屈服しなかった大きな要因だったことは異論を待たないでしょう。

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