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幕末を代表する兵器、アームストロング砲

アームストロング砲というと、日本の幕末をテーマにしたテレビ作品等にはほぼ必ずといってよいほど登場する、広く名前の知られた幕末期の最新式火砲である。

現代の日本では、その名前を聞くだけで幕末維新や戊辰戦争をすぐに連想させるほどのネームバリューを持つが、どのような火砲であったのかは知名度ほどには知られていない。

テレビ作品でも正確に発射の様子が再現されたことはほとんどない、といっても過言ではなく、「有名だけど謎の多い超兵器」というイメージがすっかり定着している感もある。

アームストロング砲の歴史とともにその実態を見ていこう。

アームストロング砲とは

アームストロング砲は、一九世紀半ばにウィリアム・アームストロングの手により開発された、後装式ライフル砲を指すことが一般的である。

この後装式アームストロング砲は当時としては初の試みが多く導入されており、この意味で画期的な最新式火砲だったのは事実である。

まず最初の新技術は、外見上の特徴ともなっている複合砲身である。

これは複数のパイプ状の部品を組み合わせることで、強度を維持しながらの大幅な軽量化を実現したもので、ベースとなるライフリングが施されたパイプ(Aチューブ)に、強度を補強するための短いパイプを嵌め込んでいく方法であった。

短いパイプは直径がベースとなるAチューブよりも若干小さいが、熱膨張させてからAチューブに嵌め込み、冷却すると元のサイズに戻ろうとする力でしっかり固定されて、発射圧力に対する高い剛性が確保できる、というものである。

当時主流の鋳造砲身に比べてかなりの軽量化に成功したが、水圧ハンマをはじめとした当時の英国でも、最新鋭の設備がないと製造できないほどの高い技術であった。

逆に言うと、英国以外の国では当時アームストロング砲の製造は不可能だったともいえる。

砲身に使われる素材も初期は錬鉄製であったが、当時最新鋭の冶金技術が惜しげもなく投入された結果、のちに初期的なものではあるが炭素鋼が採用された。

アームストロング砲の発射方式

次に特徴的なのが発射方式である。

アームストロング砲はネジ式の尾栓を採用しているため、ネジ式の尾栓を引き抜いて弾薬を装填してから尾栓を閉めて発射する、と思われがちである。

しかし実際にはネジ式の尾栓中央には大きな穴が空いており、尾栓から弾薬を装填する後装式ではあるが、尾栓が鎖栓を兼ねる現代的な方式とは大きく異なる

尾栓のネジを緩めてから空いた穴から弾薬を装填し、次に砲尾付近の上部に空いた穴から、専用の分厚い鉄板をストンと落とし込み、尾栓のネジをしっかり締めて分厚い鉄板を固定する。

尾栓がネジ式なのは、この分厚い鉄板を固定するためである。

分厚い鉄板には穴が空いており、点火装置が組み込まれている。

この点火装置が内蔵された分厚い鉄板こそアームストロング砲の鎖栓で、垂直式鎖栓と呼ばれる特殊なものであった。

これにより、ライフル砲でありながら後装式の機構を持たせることに成功し、前装砲に比べて発射速度が数分の一以下にまで圧倒的に短縮されたのである。

とくに後装砲は、狭い艦内での装填作業を余儀なくされる艦載砲としては大きな利点で、とくに海軍からは歓迎された。

しかしながらこの装填方式にこそ、アームストロング砲の利点にして致命的な弱点でもあった

それなりに厚みはあるとはいえ、たかが鉄板一枚で炸薬の圧力に耐えることは構造上かなりの無理があり、さらに点火機構も組み込まれているため余計に剛性が低下していた。

これが後に重大事故の多発とアームストロング砲の急速な退役を招くことになる。

量産配備と実戦に投入

アームストロング自身も大口径砲には向かない構造であることは重々承知していたようで、1858年に完成した試作砲も、六ポンド砲・九ポンド砲・一二ポンド砲と軽野戦砲のみの試作であり、大口径砲の製造には極めて消極的だったという。

しかし、試作砲の性能が非常に良好であったことから、アームストロング砲に過度な期待をした英国陸海軍は、ついにはアームストロング砲に関する特許をアームストロングから政府に譲渡させ、海外輸出も差し止めるなどアームストロング砲の量産配備計画を着々と進めていった。

アロー戦争(第二次アヘン戦争。1856年~1860年)において初めて実戦に投入されたアームストロング砲は、戦闘艦としてはもはや時代遅れな型の木造艦で編成された清国海軍を、文字通り完膚無きまでに壊滅させるなど大きな活躍を見せた。

しかし、英国の国内ではアームストロング砲にシェアを独占されることを恐れた兵器産業界からの強い反発が起こり、1862年にはアームストロング砲の新規購入が停止となってしまう。

続く1863年の薩英戦争では、懸念されていた垂直式鎖栓の破損事故が頻発。

使用された二一門は三六五発の砲弾を発射したが、その間に二八回も射撃不能となる故障が起きたとされる。

加えて旗艦ユーリアラス搭載の前部110ポンドアームストロング砲が暴発して、乗員が死傷する重大事故まで発生した。

なお英国はこの暴発事故を隠蔽し、暴発事故による死傷は島津軍の砲撃によるものと発表したため、現在でも島津軍の砲撃は英国軍に損害を与えたとの誤解も見られる。

この事故の影響は重大で、ついに英国は事故を起こした艦載砲のみならず、野戦砲も含めてアームストロング砲の配備を打ち切ることとなり、余剰在庫となって処分に困ったアームストロング砲を海外に輸出することとなった。

余剰在庫の販売先は日本だった

特に英国が売り込んだのは南北戦争中の米国で、北軍・南軍を問わず積極的にアームストロング砲を売ろうとしたのである。

工業地帯が中心で装備の質量ともに充実していた北軍は、アームストロング砲に興味は示さなかったが、農業地帯が中心で装備の質量で北軍に劣る南軍は、野戦砲としてまとまった数のアームストロング砲を購入している。

しかし垂直式鎖栓の破損故障は野戦砲でも頻発したようで、ついには垂直式鎖栓を接着して単なる前装砲として運用した事例も多かったとされ、南軍側が期待したほどの活躍をすることはなかった。

南北戦争が終わると、次に売り込もうとしたのが幕末期の日本であった。

これについては佐賀藩が積極的に購入したとされ、オリジナルを元にコピーした国産アームストロング砲も生産されたとされるが、現存しないため詳細は不明である。

しかし佐賀藩の冶金技術では、オリジナルと同等の剛性を持つ複合砲身の製造は不可能であったのは明白とされており、垂直式鎖栓の機構を単純にコピーしたものを国産アームストロング砲と称したのではないかとする説が濃厚である。

幕末期の史料上でアームストロング砲と記述されている場合、これら後装式ライフル砲だけではなく、前装式ライフル砲をはじめとした英国アームストロング社が製造販売した火砲全般を指すものとして使われることが多く、研究者の間でもかなり厄介な問題として立ちはだかっている。

そのため、幕末期の日本で後装式のアームストロング砲がどれほどの活躍をしたのかは、学術的には未だ不明であるが、研究者間ではおおむね活躍には否定的な見解で一致している。

ちなみに国内で稼働する最後のアームストロング砲一門は、1877年の西南戦争において政府軍が投入したが、目立った活躍をすることなく、最後のアームストロング砲は戦場で失われた。

しかしながら、司馬遼太郎の短編小説「アームストロング砲」において現在広くイメージされているような伝説的な活躍が描かれ、文学的な評価も高かったことから、どちらかといえば「欠陥の多い失敗作」といえたアームストロング砲は、「幕末を代表する傑作」という実際とは違うイメージが定着していき、今日に至っているのである。

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