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AKの歴史とミハエル・カラシニコフ

それぞれの銃には、その開発や運用、改良などの場面で、様々なドラマが隠されています。

そんなドラマを秘めた銃の中で、世界でも特に有名な銃、「AK」シリーズについて、簡単にまとめてみました。

そもそも、「AK」って?

銃に詳しくない人でも、「AK」という名前は聞いたことがあると思います。

あるいは、「カラシニコフ銃」、「カラシニコフ」なんて呼び方もあります。

これらの単語が具体的になにを指しているのかは、場合によって様々で、(後にも書きますが、「AK」と名の付く銃は、それこそ無数にあるのです)が、基本的には「AK-47、またはそれを祖先とする銃」のことだと思えば間違いありません。

「AK-47」という銃は、ロシア軍が1947年に設計したアサルトライフルです。

「AK」とは、「アブトマット・カラシニコバ」の略で、「アブマット」は、「オートマティック」、「カラシニコヴァ」とは、設計者であるミハエル・カラシニコフのこと。

「47」は、設計された年の下二けたをあらわしています。

つまり、「1947年型カラシニコフ式自動小銃」といった意味の名前です。

外見上は、木製のストック(肩当)とグリップ、そしてバナナ型にまがった30発入りのマガジン(弾倉。弾薬が入っているところ)が特徴です。

ロシア製の7.62×39ミリの弾薬を連射でき、攻撃力も高いとされています。

もっとも、大型の弾薬を使う関係で、反動が大きく、連射したときのコントロールが難しく、命中精度もあまりよくないそうです。

軍用アサルトライフルとしては極めてシンプルな構造で、訓練を受けていない人間にも扱いやすく、そして何より規格外に頑丈。

本来、精密機械であるはずの銃器ですが、AK-47は、ろくに整備しなくても、泥水に浸しても、砂の中に埋めても、ちょっと汚れを落とすだけで問題なく撃ててしまう、というほどです。

これほどに頑丈な銃は、AK-47以外ではほとんど存在しない、といっても過言ではありません。

「AK」の歴史~その誕生に至るまで

AKシリーズの祖、AK-47の誕生のきっかけは、第二次世界大戦にあります。

当時、歩兵の主な装備は、ほとんどが連射のできないライフルでした。

というのも、第二次世界大戦の前までは、戦場として想定されていたのは、広い平原のような場所であり、そういう場所で、1キロ程度の距離で撃ち合いをする、と考えられていたからです。

そのために、1キロも離れている相手に届くほどの射程と、一撃で倒せる威力、そして確実に当たる精度が大事にされ、連射性能はそれほど重視されていませんでした。

そんな中、特に連射性能を意識したライフルを開発したのが、ドイツです。

ドイツの「Stg-44」は、「突撃銃」すなわち、現代のアサルトライフルの概念を確立させた、画期的な銃でした。

工業力の問題で、ドイツ全軍にいきわたるほどには生産されませんでしたが、ドイツ軍と真正面からぶつかった旧・ソビエト連邦(今のロシアは、その主要構成国でした)は、その性能に大いに驚かされました。

そこでソビエトは、自分たちも同じような銃を作ろうと考えます。

戦争が終ると、Stg-44の大本となった、ソビエト製ライフル「フェドロフM1916(1916年に作られましたが、その後におこったロシア革命の混乱で、少数の生産にとどまりました)を作ったウラジーミル・グリゴーリエヴィチ・フョードロフをプロジェクト統括に据え、ドイツから連れてきたStg-44の設計者、ヒューゴ・シュマイザーと、当時新鋭の銃器設計者であったミハエル・カラシニコフの二人をチームとし、新しい自動小銃の設計を行わせました。

ミハエル・カラシニコフは、第二次世界大戦当時、戦車長として従軍していましたが、ドイツ軍との戦いで重傷を負い、その時の経験から、連射可能な銃の必要性を痛感して、銃器設計者になることを決めた人物です。

設計にあたっては、当時、ソビエトの工業力が低かったことから、「簡単に作れて、安価なこと」、また、独裁者スターリンの下で行われた大粛清や、第二次大戦で多数の戦死者が出て、人材も乏しかったことから、「誰にでも扱いやすいこと」、そして、「過酷な戦場でも簡単には壊れない頑丈さ」が、特に重視されました。

そこで、カラシニコフはあるアイディアを思いつきます。

銃というのは、本来精密機械であり、それぞれのパーツは極めて精密に作られ、隙間なく組み合わされています。

これは、逆にいえばそれだけ精密なパーツを作れるだけの高い工業力が求められること、そして、精密なだけに壊れやすい、ということを意味しています。

カラシニコフはここに目をつけました。

当時のトレンドとは逆に、銃の各パーツを、可能な限り大型化して、シンプルな構造にし、各パーツの間にわざと隙間を作り、隙間があっても問題なく撃てるように設計したのです。

こうすることで、寸法のずれたパーツでも動作させることができ、工業力の低い国でも作りやすくしました。

また、砂や水などが銃に入り込んでも、パーツの隙間から銃の外に出ていくので、銃を壊すこともありません。

その後、このライフルは10回にわたる改良を経て、様々な問題点を克服し、1947年、ソビエト軍のテストに提出され、1949年に正式採用されます。

「AK-47」の誕生でした。

AKのその後~「最も小さな大量破壊兵器」~

ソビエト軍の正式採用ライフルとなったAK-47は、その安さと作りやすさで、大量生産されました。

生産の過程で、問題点の改善のために、三つのバージョンが生み出された他、小型化した「AKS-47」、近代改修型として1950年代には、「AKM」が誕生します。

また、アメリカを中心とする西側諸国と、ソビエトを中心とする東側諸国が争っていた東西冷戦という当時の状況から、ソビエトの同盟国に大量に輸出されました。

そして、そのシンプルな構造から、東側諸国でも独自に生産、改良が施された派生モデルが、大量に発生。

本家ソビエトでも、その後さらにAK-47をもとに、より小さい弾薬を使用する「AK-74」、軽機関銃として再設計した「PRK」、銃声を極限まで小さくした特殊用途の狙撃銃「VSS」などを開発します。

また、AK-47自体の設計思想は、直接AKから派生しない銃にも多く引き継がれ、結果的にAKにそっくりな銃が、多数出現することにもなりました。

ソビエトの崩壊、冷戦の終結によってもAKシリーズは衰えることはなく、新たに「AK-100」シリーズが誕生し、「AK-200」を経て、2012年、最新型アサルトライフル「AK-12」が、ロシア軍でテストされています。

しかし、その一方で、AK-47は、裏社会にも大量に出回りました。

そして、安価で扱いやすい、というその性質から、マフィアやテロリストなどにも愛用されるようになってしまいました。

加えて、ちょっとした設備があれば簡単に作れてしまうシンプルな構造から、違法コピーが氾濫。

貧しい国では、今でも貧困層の人間たちによって、粗悪な違法コピー品が、生産され続けています。

そのため、違法コピー品も含めると、実に1億挺以上も生産されたと言われています。

そうして生産されたAKは、世界中の戦場で、あらゆる勢力の人間たちの手で使われたことから、「史上、最も人を殺したライフル」、「小さな大量破壊兵器」とも呼ばれるようになりました。

2013年に死去したカラシニコフは、こうした状況に心を痛め、晩年、こう語ったと言われています。

「わたしは自分の発明を誇りに思っている。しかし、それがテロリストたちに使われているのが哀しい。人びとが使えて、農民の助けになるような機械を発明すればよかった。たとえば芝刈り機のようなものを・・・。」

銃といえども、それを作るのは人間です。

そんな人間たちの織り成す様々なドラマは、見る者の心を揺さぶるものがあります。

そんな銃の裏側に隠れた、人間たちのドラマに触れることは、ミリタリー愛好家にとって大きな楽しみです。

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