大艦巨砲主義で敗れたのか?
第二次世界大戦の初期は、戦争は空母と戦闘機、攻撃機や爆撃機といった、航空戦力が勝敗を決するという航空機全盛の時代への転換点でした。
そんな時代に日本海軍は、いつまでも旧時代の戦艦にこだわり、戦艦大和という無用の長物まで造艦した挙句に、「何の役にも立たずに撃沈をされた」、軍のトップは時代の流れを読めず、大鑑巨砲主義のまま戦争を遂行し、日本を敗戦に追い込んだというイメージをお持ちの方が多いと思います。
戦後、大東亜戦争を全否定する時代の流れの中にあって、戦前の軍部や指導者の判断、意思決定について、冷静で客観的な分析がされなかった時代に根付いたイメージではないかと思います。
実は戦争前夜、日本海軍の姿を客観的にみると、それらは事実とは全く異なるイメージであることが見えてきます。
その一例を挙げてみると
- 世界初となる正規空母の就航
- 空母(航空機)の集中運用による敵拠点への集中攻撃
- 現代では常識の、空母を中心とした輪形陣形の海上布陣
- 航空攻撃のみによる世界初の戦艦の撃沈
- 世界初となる潜水空母からの航空攻撃
- 世界最大の空母の建造
- 大艦巨砲主義は実はアメリカ海軍だった?!
など、およそ戦艦偏重で航空戦力の開発が遅れたことから、時代の流れについていけずに惨敗した日本海軍、というイメージからは全く違う客観的事実が見えてきます。
にわかには信じがたい事だと思いますが、これは一体どういうことなのでしょうか。
航空機の登場
空母の歴史を考えるに先立ち、航空機が戦争に登場し、実践に投入され始めたのは一体いつの頃なのでしょうか。
当然のことながら航空機が存在しなければ、航空母艦、すなわち空母という概念は存在しませんので、空母の歴史を考えるためには、航空機の歴史に想いをはせる必要があります。
航空機が戦争に初めて投入されたのは、実はそれほど古いことではなく、第一次世界大戦前夜の欧州、今からちょうど100年と少しほど前のこととなります。
ここから世界の航空戦史が始まります。
もちろん当時は、「フネ」に航空機を搭載しようなどという奇抜なアイデアを考えつくものもおらず、そもそも航空機も複葉機であったことから低速で装甲もなく、全金属製ですらない非常に前近代的なもので、戦闘行為を行えるようなものではありませんでした。
従って当時は、情報を収集し、地上戦を行う部隊に対して彼我の状況を伝えることを任務とした偵察業務を主として行っており、武装も搭載しておらず、上空で敵の「偵察機」と遭遇するとお互いに敬礼を交わすような礼法もあったと言われています。
しかしながらこの航空機という存在、これまでは双眼鏡でなんとか敵情を肉眼で把握し、肉眼で水平的に得られる情報から彼我の戦闘効果・被害状況に関する情報収集に努め、戦況判断をしていた時代に比べ、飛躍的な情報量を指揮官にもたらすこととなりました。
まさに文字通り、味方の布陣と状況、敵の布陣と状況を鳥瞰図的に把握できるわけですから、水平視点から得られる情報より遥かに多くの情報を正確に把握できることになり、情報戦という意味において革命的な変化を戦争にもたらすこととなります。
しかしそれは、味方にとってとても有益な情報をもたらす存在というのは、敵もまた同様のことであり、敵の偵察機を野放しにすることは、味方が不利になる情報をみすみす与えてしまうこととなります。
そのため偵察機のパイロットは偵察任務に赴く際は拳銃を携行するようになり、上空で敵の偵察機と遭遇すると銃撃戦を行い、敵のパイロットの射殺を企図することとなりますが、やがて、それは可能な限りの武装を施して上空に上がり、敵の航空機を落とすことそのものが任務となる機種の誕生を促すことになります。
近代的な戦闘機による近接戦、ドッグファイトの始まりです。
空母の誕生まで
このように、当初は地上戦の偵察任務に用いられていた航空機でしたが、次第に航空機同士の戦闘が日常化し、間もなくして戦闘を専門とする戦闘機という機種が誕生、爆撃機や雷撃機といった専門機種を生み出すこととなっていきます。
そんな認識が広がり始め、航空機を有効に運用することが、戦闘の帰趨を大きく左右するという考え方が広がったことは、第一次世界大戦がもたらした大きな一つの影響でした。
しかしながら、まだまだ複葉機の時代であり、大した武装も積めず低速な航空機のできることは限定的であったために、その役割と将来性を正しく理解する国はありませんでした。
そんな中、人類史上もっとも珍奇な兵器の一つと言われるパンジャンドラムを生み出した珍兵器の母国、英国で、奇異なことを考えついた軍人が登場します。
すなわち、「航空機を艦船に載せて移動する専門の艦種を造船し、もっと規模を大きくすればすごい戦力になるんじゃないの?」という考え方です。
このシンプルで時に短絡的とも思える英国軍人の思考回路は、多くの場合珍兵器の開発に多大な労力と膨大な予算を浪費して終わることが多いのですが、そこは世界初の「Tank=戦車」を生み出したお国柄です。
進取の気性に富んでいるからこそ奇抜な兵器も生まれる一方で、極めて先見の明に長けた兵器の誕生も許すのがお国柄というものでしょうか。
航空機の発達で水上機を海上輸送する「水上機母艦」は、第一次世界大戦までに実際に開発され運用されていたものの、水上機はその形状から、ただでさえ貧弱なエンジンの時代に離着水用のフロートが過大な荷重となり、十分な性能を発揮できるものではありませんでした。
また、海上に離着水する水上機をクレーンで荷揚げ・荷降ろしする作業は極めて効率が悪く、戦闘中に敵前で行うには極めてリスクが大きかったことから、運送用の艦船に直接離発着できる航空機と専用の艦船を開発すればいいじゃないかという発想につながることになります。
艦上機(艦載機)と航空母艦という、専門艦種の誕生です。
世界初の正規空母 日本海軍「鳳翔」誕生
このような発想のもと、英国では本格的な空母の研究と試作が始まりました。
時に1918年1月のことで、第一次世界大戦の終結が1918年11月のことですから、まだ第一次世界大戦の最中のこととなります。
「正規空母」という着眼のもと、この新兵器の開発に取り組み始めた英国でしたが、さすがに第一次世界大戦は英国を含む欧州に多大な傷跡を残しつつあり、しかも未知数であったこの新戦力に多くの手間とコストを割く余裕は、当時の英国にありませんでした。
しかしそんな時、その新兵器の開発に熱い視線を注いでいた国があります。
すなわち、日英同盟を結び、固い軍事同盟を結んでいながら、激戦地欧州から遠く離れていたためにほとんど被害を受けていなかった、我が国日本です。
日露戦争の際に、英国の物心両面の援助によって世界を驚かす奇跡の勝利を収めた日本でしたが、この時はまだ日英同盟は健在であり、比較的第一次世界大戦の影響を受けていなかった日本は、英国にとっても格好の「共同開発」の相手でもありました。
また日本も、当時世界の海軍先進国であった米英に比べ、戦艦戦力の整備を十分に行うに際して国力が不足しており、海上戦力を補助する有力な手段の開発に苦心をしていたことから、この「正規空母」という発想に強く興味を惹かれることとなります。
このように日英両国の思惑が合致して英国の助力のもと、日本において正規空母鳳翔の開発が本格的に始まり、そして1922年12月に、世界初の正規空母として、「鳳翔」が産声を上げ、英国に先立ち、世界の海に「航空母艦」という艦種が漕ぎだすこととなります。
太平洋戦争の開戦に先立つこと19年前のことでした。
もちろんアメリカを含む世界では、まだ航空母艦などという「イロモノ」は、戦力としては全く実戦投入が為されていない時代でした。
日本に航空母艦の結末
その後日本では、1921年のワシントン海軍軍縮条約で、正式に対米英比での海軍主力戦力(戦艦、巡洋艦)の総トン数の制限を課せられることになったことから、条約によらない艦種での海上戦力の充実を企図することになり、航空母艦という艦種の研究と、空母と航空機を集中運用することによる新戦力の研究が充実することになりました。
これが、世界で初めての空母と航空機の集中運用に因る真珠湾攻撃を生み出すこととなり、これまで、このような戦術に晒されたことがなかった世界の海軍関係者に強い驚きと衝撃を与え、太平洋戦争は極めて印象的で劇的な幕開けを迎えることになりました。
しかしながら、歴史の事実が示すようにこの世界初の航空攻撃の集中運用による大戦果を挙げたことから大きな教訓を得たのは、攻撃を仕掛けた日本側ではなく、むしろ大きな被害を受けたアメリカ海軍の方でした。
アメリカ海軍は早速日本海軍の戦術を取り入れ、取り入れるだけではなくさらに、日本海軍が組んでいた空母を中心とした「輪形陣」という思想を更にブラッシュアップさせ、海上戦闘の中心は空母であるというパラダイムシフトを極めて素直に受け入れた戦時体制にシフトします。
その結果、真珠湾攻撃の半年後に勃発した1942年6月のミッドウェー海戦において、日本海軍の空母機動部隊は、アメリカ太平洋艦隊の空母機動部隊によって完膚なきまでに破壊され、参戦した主力空母の全てを失うこととなり、熟練搭乗員の多くを失うことになった日本海軍の攻勢は、終わりを告げることになりました。