国内最大級のミリタリー総合通販   商品数 11,321点レビュー総数 1,823件

カート

ミリタリーショップ レプマート

劣悪だったイタリア軍の装備

2015年5月2日 マサ22 ミリタリー雑学

この記事がお役に立ちましたら、シェアや、いいね!、ツイートをして頂ければ嬉しいです。

イタリアはヨーロッパ近代帝国主義諸国の一角を占めてはいたものの、統一国家となったのは英仏に比べてはるかに遅く、国内産業の発達も遅れていました。

1923年にムッソリーニが政権を獲得した後も、その工業力の発展はあくまでゆっくりとしたもので、軍備に関しても同じで、その発達は緩慢なものでした。

これはムッソリーニが大して軍備に関心を持っていなかったことも原因で、ムッソリーニは自分の専門外のことに関しては謙虚で、専門家の言うことを良く聞いていましたが、これが裏目に出た形で、概して軍の専門家というものは保守的で改革を好みません

それが工業力の不足とあいまって、イタリア軍兵器の進歩を遅らせたのです。

陸軍の主要兵器に関しては、イタリア軍は劣悪としか言いようのない装備しか持っておらず、たとえば小銃について言えば、第2次世界大戦中イタリア軍は1891年型のカルカノ銃を使い続けました。

この銃は古いというだけでなく性能も劣悪で、弾道性能が悪く威力に乏しかったのです、そして構造が弱く危険でさえありました。

イタリア軍でも1938年に新型小銃への更新が計画されましたが、工業力不足から不可能だとして結局は見送られました。

さらに機関銃に関してもひどいもので、何よりの問題は、各種の口径の機関銃が混在していたことですが、さらにそれぞれの機関銃の性能は劣悪なもので、口径6.5㎜のブレダM30軽機関銃は不格好で扱いにくく、レベリー機関銃は危険で、口径8.5㎜のブレダ機関銃は、保弾板を使用することを除けば比較的まともでしたが、いずれの銃も発射速度が低く、近代的な機関銃とは言えませんでした。

火砲については、大戦を通じて第1次大戦中の骨董品が主力というありさまで、これも更新がはかられたものの、工業力不足で不可能でした。

対戦車砲も元々はオーストリア製で、ライセンス生産したCannone da 47/32で、それも大戦初期でさえ威力不足、戦車は、工業力が劣っていました。

イタリア軍は1929年にイギリスからカーデンロイドMk.Ⅳ豆戦車を購入しましたが、軍事予算も限られていた関係で、この車体をすっかり気に入り、1930年代に安価で数をそろえることのできる豆戦車を採用、国内で改良型を量産することにしました。

これがイタリア軍のカッロ・ベローチェ タンケッテシリーズで、改良型のカッロ・ベローチェCV33は1934年から生産が始められ、本車は安価で生産が容易なこともあり、約2,500輌が生産されました。

CV33はいちおう戦車の仲間ですが、実際は砲塔も持たず、小さな軽装甲の箱に機関銃が付いただけの「移動トーチカ」で、装甲は前面13.5mm、側面8.5㎜と薄くとても貧弱でした。

出力43馬力のガソリンエンジンを搭載、最大速度は42km/h、航続距離は路上120km/h、路外6時間でした。

ただし小型転輪が並んだカーデン・ロイド式サスペンションは地形追従性が悪く、無線機も指揮官車にしか装備されませんでした。

これはまた、山がちなイタリアの地形から、小型の車両が望ましいと考えられた為でもありましたが、本車は戦車と呼ぶにはおこがましい代物で、訓練用ならともかく実戦兵器としての価値はありませんでした。

これが第2次大戦までに更新されれば問題はなかったのですが、結局これも工業力不足でままならず、第2次大戦でも豆戦車を主力とせざるを得ませんでした。

1940年以降、いちおう列国に比肩できる中戦車の配備が開始されたものの、生産数においてはロシアやアメリカはもとより、ドイツにさえ遠くおよびませんでした。

そして日進月歩の戦車の発達にもついて行くことができず、イタリア軍の戦車部隊は量的にも質的にも劣った装備で戦わざるを得ませんでした。

そして部隊を支える戦闘車両でも、その貧弱な工業力は軍の需要を満たすことができず、全部隊の機械化、自動車化はとうてい不可能でした。

このためイタリア軍歩兵部隊は、アフリカでもロシアでも、文字通り歩く兵士の部隊のままだったのです。

イタリアはアフリカ植民地での戦いの経験から、軍隊や警察に偵察・支援用の装輪装甲車を備える必要性を感じていました。

戦前に配備されていた装甲車は偵察には不向きであり、1938年に装甲偵察車輌の開発が開始され、すでにフィアット社は、アンサルド社とともに1936年から装甲車に関する共同研究を行っていて、1939年にこの車体がイタリア陸軍にAB39として採用されました。

この車体は機動性は高かったものの、武装は機関銃だけで、無線機も装備しておらず、このためブレダ35 20㎜砲が新たに搭載され、あわせて無線機も装備された車体が当初AB40の一部として、1941年からはAB41として生産されることになりました。

傾斜面で構成されたAB40シリーズの装甲厚は車体各部が8.5㎜、砲塔前面で18㎜、武装は前述したように各型で異なりますが、いずれも車体上の全周旋回砲塔に装備されていて、さらに車体にも機関銃が装備されていました。

最大の特徴は高い機動性能で、4輪駆動、4輪操舵、前後部に操縦席を備え、さらに車体中央部左右にあるスペアホイールが自由に回転するようになっていて、車体の下腹が付きそうな不整地では、補助タイヤとしてあたかも6輪車体のようになり、エンジン出力、最大速度は型によって異なりますが、不整地で30~37km/hで走行することができました。

シリーズ全体で550輌が生産され、戦車、騎兵部隊に配備されて北アフリカ戦線などで活躍し、1943年9月の休戦以後もファシスト側、さらにはドイツ軍によって使用が続けられ、戦後になっても警察で使用されていることが本車の高い性能を物語っています。

アウトブリンダAB41装甲車」全長3.2m、全幅1.4m、全高2.45m、主武装ブレダM35 20mm機関砲、装甲厚6~18㎜、エンジン フィアット/スパAbm、最大速度78km/h、航続距離400km、乗員4名です。

広大な砂漠が広がる北アフリカ戦線で、ジープや武装トラックをもちいた英軍の神出鬼没な長距離偵察部隊は、開戦時からイタリア軍を撹乱して大きな効果を挙げ、これに手を焼いたイタリア軍参謀本部は、1941年に対抗策として偵察コマンド部隊の編成に着手しました。

その装備として、大型で長距離偵察や攻撃作戦への参加が可能な特殊ジープの開発を、フィアット社のトラック部門であったSPA社とヴィベルティ社に命じたのでした。サハリアーナとは「サハラ砂漠の」という意味を持ちます。

AB40シリーズの装甲車のシャーシを利用したこの4輪走行ジープは、現代の兵員車輌に通じるようなオープントップの独創的なデザインと大きなペイロードを有し、ブレダ機関銃を初め、車体中央の銃架にはブレダ20㎜対空機関砲や47mm47/32対戦車砲など重火器を搭載可能でした。

また砂漠での長距離作戦を想定して、水と燃料缶を側面ラックに左右20缶、さらにフロント左右に4缶載せることができ、これにより単独で数百~数千kmのロングレンジな作戦行動が可能になり、さらに路上では最大85km/hで走行可能で、各型合計で約200輌が生産されています。

1942年夏、新設コマンド部隊である第10突撃空挺連隊の1個突撃ジープ中隊にAS42ジープが装備されてリビアやチュニジア戦に投入、翌年さらに3個中隊が編制されて、シチリアやローマ防衛に就き、一部の装甲偵察部隊もこのジープを配備しています。

休戦以降の1943年11月、同連隊第112突撃ジープ中隊は独第2降下猟兵師団とともに東部戦線に送られ、イタリア義勇兵達は7輌のAS42ジープを駆って数多くの危険な作戦に従事、この活躍でドイツ軍からも称賛され、寒冷地でもその高い性能を証明したのでした。

The following two tabs change content below.

マサ22

イタリア, 戦車, 第二次世界大戦,

2 Responses to “劣悪だったイタリア軍の装備”

  • 軍事史マニア より:

    >口径6.5㎜のブレダM35 20mm機関砲
    >>なんで口径6.5ミリと書いておきながらM35 20mm機関砲と混同するのか。ブレダM30軽機関銃が正解。

    >対戦車砲も主力の47㎜砲はもともとオーストラリア製で
    >>元々はオーストリア製で、ライセンス生産したCannone da 47/32

    商売をしているのなら手抜きの適当な文章を書くな。
    見苦しいしイタリア人に失礼である。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です