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レーダー開発と民間と軍の関係

2014年12月20日 黄昏入 ミリタリーの歴史

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日本海軍には伝統があり、それは「数々の訓練と、それに培われた経験に勝るものはない」という精神論だった。

精神論が現実の戦力を補うという、恐ろしい考え方が当たり前のようになるのは、戦争も終盤に差し掛かった1943年の夏ごろかもしれない。

ガダルカナル島の確保をあきらめて撤退するころから、日本軍の戦力は精神力をしても、どうにもならないことになっていった。

特に、日本海軍の立場でいえば、幾多となく繰り出す艦艇も、航空兵力も、ことごとく失われてしまう現実があった。

その理由は、自分たちの戦力や、練度が低下していったことはもちろんだが、アメリカ軍が使いこなしている、ある装置の存在にも気が付いていた。

つまり「レーダー」の差だ。

レーダーがあれば、アメリカ軍は日本軍の艦艇や、航空機の襲来を事前に感知でき、攻撃が奇襲にならないことで、戦果を挙げられないどころか、自分たちの戦力が消耗せずにすむことにやっと気付いたのは、ガダルカナル戦の終了前後の事だった。

ガダルカナル戦では戦艦「金剛」「榛名」による夜間砲撃が成功した事例もあったが、後続戦力をガダルカナル島に、投入するべく艦艇を派遣すると、ことごとく被害を受けた。

昼間が無理なら夜に行こうと、夜間輸送を試みた際に発生した「サボ島沖海戦」では、自分たちが気づかないところから一方的に砲撃を受け、大損害を被った。日本海軍は長年の経験と訓練において、「精神集中すれば夜戦に敵なし」と考えていて、夜の輸送なら何があっても、敵を返り討ちにできると確信している部分があった。

それが、サボ島沖海戦では一方的にやられた。

そこでようやく日本海軍は「レーダー」の有用性を痛感したのだった。

ガダルカナルでの敗戦の理由を「レーダー」に求めた陸海軍は、さっそくレーダーの開発に本腰を入れる。

1943年6月には陸軍がレーダー専門の研究を行う「多摩技術研究所」を設立し、電波兵器の研究を促進するために、あえて軍の研究を公開することで、民間の研究者の協力や技術の提供を得る方向を打ち出した。

レーダーのモックアップと言えるものは、実は存在していた。

太平洋戦争初期に占領したフィリピンと、シンガポールで鹵獲したイギリスやアメリカのレーダー装置があったのだ。

軍では、それらを鹵獲したのちに様々な調査を行っていたが、その技術を民間技術者に公開した。

正直、軍のお抱え研究者ではわからなかったことが、民間技術者によってわかる、ということもしばしばあったのだと言う。

さらに、民間企業が関与することで、真空管の生産量を増やし、レーダー兵器の開発に必要な消耗品の、供給体制を確立することもできた。

こうして日本陸海軍はアメリカに対抗すべく、積極的にレーダーを開発し始めたのだ。

1943年10月には「科学技術動員総合方策確立に関する件」が閣議決定され、「航空戦力の急速なる強化を中心として、科学技術の動員を徹底し科学技術に関する軍官民の研究体制を総合能率的に整備し、其の総力を発揮し米英を圧倒すべき研究成果を急速に達成すると共に、右研究成果を神速に戦力化すべき、方策を確立せんとす。」という、長々した口上文が公表された。

要するに、軍も民間も積極的にお互いの技術を公開し、相乗効果ですごい兵器を作ろう。

というのが趣旨なのだが、これが戦争を開始してから数年後に出されること自体、正直言っておかしい。

さらに1944年9月には『科学技術ノ戦力化に関する件』を閣議決定して、軍と民間技術者に加え、大学の研究機関も、全面的に軍に協力する仕組みをつくることになった。

これも正直言って遅すぎるし、有能な研究者や学生の中には、これより以前に徴兵されてしまっていることもあり、言っていることと、やっていることが本当にチグハグしている状態だった、と言える。

海軍が特に欲したのは、艦艇の射撃用レーダーと、迫りくる艦艇や航空機を、事前に察知するレーダー装置だった。

艦艇にレーダーを設置するには、設置面積や重量のことも考慮されなくてはならないが、まずは戦力となるように、とにかく一刻も早くレーダーの開発を進めたい日本海軍は、あらゆる制限を撤廃し、レーダーの開発を奨めさせた。

しかし、人や資源が不足している情勢であるにもかかわらず、射撃制御レーダーの開発は、なんと3つのプロジェクトが同時に勧められた。

1つは既存の航空機早期警戒用レーダー(2号1型電波探信儀)を改良すること、もう1つはおなじ航空機早期警戒用レーダー(マイクロ波タイプの2号2型電波探信儀)の改良だった。

そして3つ目は、ドイツ製のウルツブルグレーダーをコピーする開発だった。

要するに「どれか1つでも成功すればいいだろう」の勢いで取り掛かったが、結局最高の性能を誇るウルツブルグレーダーは開発できず、もともと存在していた日本製のレーダーも低性能なうえに、性能の根幹となる真空管の質にムラがあり、思ったほどの性能を発揮しなかった。

それでも、来たるべき決戦に備えて、レーダーは必要だった。

日本海軍は、結局2号1型電波探信儀にビーム切り替え回路を附加した、対艦船用の射撃制御レーダー2号1型改3を完成させたが、実際に使ったところほとんど用をなさないことが分かり、結局2号2型電波探信儀の丸型ホーンアンテナを、大型の四角形ホーン3個に変更した3号2型電波探信儀が完成して、ようやくまともに利用できる対艦船用レーダーを開発することができた。

しかし、完成したのは1944年9月で、既にマリアナ沖でレーダーを搭載すべき艦艇の大半が沈没し、残された艦艇には急ピッチで搭載作業が進められる。

このレーダーは性能が良かったが、重量が5トンもあり、装備するには一部の艦艇で艦橋を補強しなければならなかったこともあり、結局、レイテ沖海戦(捷一号作戦)でこのレーダーが搭載されたのは、すべての空母と戦艦、重巡洋艦と一部の軽巡洋艦に限られた。

実際、レーダーを装備したレイテ沖海戦では、敵航空機の襲来を事前に把握することもできたし、栗田艦隊が遭遇した、アメリカ護衛空母部隊との砲撃戦においても、敵の煙幕をもろともせずに正確な射撃を行うことができ、空母「ガンビア=ベイ」を撃沈するなどの成果も得られた。

しかし、このレーダーが出来たからと言って、すでに戦力の均衡ができるほどの状態ではなかったのだ。

レーダーに関連して、面白い逸話があるのでこの機会に紹介したいと思う。

シンガポールを占領した日本陸軍は、イギリス軍が使用していた「GLマークⅢ」レーダーを鹵獲する。

このレーダーは、砲台から遠方の敵に向かって射撃を成業するレーダーで、陸軍も海軍もこのタイプのレーダーを欲していた。

もちろん陸軍は、このレーダーを鹵獲すると回路図や接続図を探すが、結局焼却処分されていて、大半の資料は見つからなかったが、ようやく焼却炉の中から焼け残った1冊のノートを発見し、GLマークⅢの一部の性能を理解することができた。

このノートの調査を進めていくと、中に頻繁に書かれている「YAGI」という記載が気になった。

日本の研究者にはYAGIの意味が分からない状態で、結局シンガポールで捕虜とした、イギリス兵に詰問することとなった。

すると帰ってきた答えは「YAGIはこのレーダーに使っているアンテナを発明した、日本人の名前だ」と。

そう、このYAGIとは、1926年に国際特許が取られたアンテナで、日本人研究者の八木秀次氏と宇田新太郎氏が開発したアンテナのことだったのだ。

この技術に目を付けたアメリカやイギリスは艦船用のレーダーや、対空監視用のレーダーを速やかに開発したが、日本陸海軍はこの有用な発明を一切無視していたのだった。

「電波に頼ると、自分たちが発信源をばらしてしまって戦闘に勝てない」という、たったそれだけの理由だった。

レーダーをめぐる歴史を追いかけてみると、なんだか日本陸海軍の「意固地」さ、に気づく一方、民間技術を甘く見ていたことを痛感する。

それを悔い改めたからこそ、今の日本があり、技術先進国たりえるのかと思うと、なんだか切なく感じるのは、私だけだろうか。

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黄昏入

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