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クロスボウと百年戦争

2015年4月29日 Freude ミリタリーの歴史

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小さい子供に「ロケット描いてみて」、と頼めば、十中八九は先端は尖らせ、末端には後ろの方に傾斜が付いた羽を描くことでしょう。

これは「ノーズコーン」と呼ばれる先端部と、後退翼がついた安定翼というデザインが子供にも浸透していることを示します。

ミサイル兵器にこのデザインが見られるのは近代以降では、ドイツが第2次世界大戦で用いた史上初の弾道ミサイル、「V2」です。

Surface-to-Surface V-2 (A-4) Missile

By: Cliff

ここで「近代以降では」と言ったのは、実はこのデザインが考案されたのは正確な年代はわかっていないのですが、少なくとも1200年台のウエールズではこのデザインによって兵器が作られていたのです。

それは、後退翼がついた安定翼をもつ矢を放つクロスボウで、「百年戦争」で飛び道具の主役として活躍しました。

鋼鉄製の矢を強大な張力の開放とともに打ち出すこの兵器は、当時の騎士が身につけていた甲冑を百数十メートルも向こうから貫くことができるように改良されました。

しかし、この兵器には戦場で運用するにはいくつかの欠点があり、まずあげられるのは命中精度が良くなかったことで、それを補うためには多くの弓兵が雨あられと矢を放つ必要がありました。

しかし、それは二つの面で困難で、まず矢をつがえて巻き上げ機で張力を持たせるまでに時間が掛かる点は、何も改善されていませんでした。

熟練した弓兵でさえ、1分に2本射るのがやっとで、しかも、クロスボウは製造コストがかさむ兵器でもありました。

弓の部分の材質は、当時さられている中では木材と水牛の角を張り合わせた素材が強さと、柔軟さを兼ね備えるためには最も適していました。

水牛の角が高価な上に、木材と水牛の角を貼り合わせるには、湿度や天候の変化にも耐えうる接着剤が必要で、もちろん当時、現在のように化学合成された接着剤は存在しません。

当時の人は気の遠くなるような試行錯誤から、ボルガ川産のチョウザメの僅かな部分の皮からこの条件を満たす接着剤を作りましたが、値段もまた気の遠くなるようなものになりました。

つまり、発射速度が遅い上に高価なために数を多く揃えることが困難であったので、命中精度の悪さを矢の密集度で補うという戦術を取ることが難しく、戦場ではあくまで補助的な役割になったのです。

ガンダムのブライトさんなら、「弾幕薄い!」と指示しているところです。

しかも、防御側、つまり甲冑の側でもクロスボウ対策を素早く立て、騎馬との組み合わせで、既に歩兵に対してはその打撃力と防御力において圧倒的な優位を築いていた騎兵にとっては、クロスボウが克服すべき唯一の相手となっていました。

そこでアウグスブルクを中心として栄えていたドイツの鎧職人たちは、ほぼ完璧にこの課題をクリア、鎖帷子の上に着用する板状の鎧に、固さだけでなくある程度の柔軟さを持たせたのです。

こうすることでクロスボウの矢が命中しても少しへこむことで、その威力を吸収・減殺したのです。

現代の乗用車が人間が乗る部分を除けば変形しやすく、それにより事故の衝撃を吸収するのと同じ考え方が既に実用化され、これらの対策により、余程至近距離でも無い限り、クロスボウは騎士に対しては効力を持ちませんでした。

乗馬も甲冑で覆われているので、馬を射て騎士を落馬させるという以前の戦術も使えなくなりました。

歴史の教科書では、百年戦争の記述ではイングランドの長弓隊がフランスのクロスボウ隊に勝利した、位にしか書かれておらず、これだと単に射程が長くて勝った、という印象です。

しかし、一見原始的な武器に見える長弓は、当時最新の科学技術(それどころか、現在も使われている技術)と長い年月の鍛錬により驚異の武器となっていました。

イングランド王エドワード1世は、ある時のウエールズ人との戦いで、彼らが使う異様に長い弓の貫通力に驚きます

長弓の矢はある騎士の太腿に命中すると、甲冑で覆われた太腿ばかりか鞍も貫通し、馬を射殺してしまったといいます。

そこでエドワード1世は、高額の賞金による弓術大会を開催し、長弓に長じた男たちを集めて組織的な訓練を始め、ウエールズ人が、狩猟用の道具としての弓には長じていても、それを軍隊として組織的に運用することを知らなかったのはイングランドにとっては幸運なことでした。

余談ながら、この弓術大会の優勝者の中には、かのロビンフッドもいたといいます。

この長弓が騎士の甲冑を打ち破ることができる、という先見の明を持ったエドワード1世でしたが、熟練までに10年、20年という長い年月を要する長弓を軍隊として組織することに成功したのは孫のエドワード3世でした。

しかしこの百年近い間、長弓はそのデザイン自体は全く変わっていないのです。

冒頭に書いた、先端の「ノーズコーン」、飛翔する時の安定装置である今で言う後退翼である矢羽など、11世紀のウエールズ人が、科学技術の裏付けもコンピュータによる計算もなしにこのデザインに辿り着いたことには驚嘆を禁じえません。

無論、矢を放つ弓にも様々な工夫が長い年月の間に蓄積されており、その最大の威力を屋に与えるための長さと素材、そして雨などの悪天候であっても狂ったりせずに全く問題なく射ることができるように施された防水処理など、同時代の弓より長いだけに見える外見とは裏腹に、長い試行錯誤の結果が凝縮したものでした。

Joan of Arc

By: David

ともあれ、甲冑と長弓、二つの武器が雌雄を決すべく対峙したのが1415年、「アジャンクールの戦い」でした。

既に1346年の「クレシーの戦い」での惨敗で、フランスは長弓の威力を知っていたはずでしたが、教訓とはしませんでした。

この時の敗因を、前衛のクロスボウ部隊が騎士の突撃を妨げたと考えたのか、一見農民の集団にしか見えない長弓隊にフランス騎士が敗れるはずがないという誤った矜持が、戦術的な目を曇らせたのかはわかりません。

ともあれ、イングランド軍約5,000に対し、およそ3倍の兵力のフランス軍は突進し、前衛の歩兵部隊が長弓の餌食になっても、当時最新の甲冑を身につけた騎士たちは意に介さず敵陣に向かって突入します。

彼らを待ち受けていたのは、長年の訓練で毎分十数本という恐るべき間隔で黙々と射る、長弓隊の熟練の技で、そしてその矢は、経験則の末に辿り着いた、恐るべき科学的な威力が込められていたのです。

ある実験によると、長弓が繰り出す矢の威力は、人間に重症を与えることができる運動エネルギーの実に10倍で、クロスボウをものともしない、騎士たちの最新の甲冑はまるで紙のように長弓に貫かれていきました。

騎士たちの体を守る役割はほとんど果たされることは無く、ごく少数の騎士がイングランド軍の陣地までたどり着きましたが、わずか数騎だったのでたちまち歩兵に包囲されて斃されました。

勇敢な、ある意味で向こう見ずな突撃は少なくとも三度繰り返されましたが、ハチの羽音のような矢羽の飛ぶ音がするたびに、数百騎単位の騎士と馬が死者の列に加わり、二時間もしないうちに戦いの帰趨は決しました。

クレシーの戦いが決して偶然でないことを思い知る前に、フランス軍の精華である騎馬騎士団は壊滅し、対するイングランド軍の死者は、100名余だったといいます。

アドリアノープルの戦い以来約1,000年間もの間、陸戦を支配してきた騎馬騎士の集団突撃の物理的威力による敵の粉砕という戦闘教義(バトルドクトリン)もこれとともに消え去ったのでした。

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