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日本本土決戦とその体制

2015年2月27日 黄昏入 ミリタリーの歴史

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日本政府が「日米の天王山」と呼号し、死守すべく全力を注いだフィリピン。

次第に戦況は悪化し、フィリピンの失うと、アメリカ軍の本土侵攻は時間の問題となりつつありました。

アメリカ軍の作戦はいたって単純で、B-29による爆撃や機雷投下により、 日本の戦争能力を完全に止めてしまうものでした。

アメリカ軍潜水艦の攻撃で多くの輸送船が沈み、マリアナ海戦とレイテ沖海戦で敗れた後の日本軍は、制海・制空権をアメリカ軍に奪われたため、兵站、連絡網は完全に遮断されることになります。

そのような状況では、撤退も増援も絶望的な状況であり、内地において本土決戦に備えるための資源も燃料も手に入らなくなってしまいました。

そんな状況下であっても日本政府はまだ戦争の終結を望まず、本土決戦を声高らかに告げます。

勝ち目のないとわかっている戦争を、なぜ「本土決戦」の名のもとに続けようとしたのでしょうか。

資源の確保

アメリカ軍他、連合軍の本土上陸に備えた防衛のため、その準備は挙国一致体制の掛け声でおこなわれました。

前述したように、金属や石油など軍需物資の深刻な不足は続き、先のフィリピン戦の勝敗が決した時点で、それらが日本本土に運ばれてくることは完全になくなりました。

それでも日本は資源の確保のために最大限の手を打ちます。

残存艦艇であった「伊勢」「日向」などを基幹として構成した完部隊を組織し、「北号作戦」と称してそれらの艦艇による資源輸送作戦が実施されました。

運よく北号作戦は成功しましたが、成功してもそれらの艦艇で運べたのは中型タンカー一隻分の重油程度。

それだけにも大本営は「大成功」と歓喜したと言いますから、当時の日本の国力がいかなる状態であったかというのが伺えるわけです。

国民も様々な窮乏に耐え、資源の確保に駆り出されていました。

航空機燃料用としてリコピン油(松根油)の生産するため、児童や老人が日本中の山々から松の根を掘り出す作業に駆り出されました。

既に金属類は自由に手に入ることはなく、資源を運ぶ船舶用の資源すら手に入らなくなってきた日本では、木造船やコンクリート船の建造さえ行なわれていたのです。

手痛い一撃

そこまでして戦争を継続しようとするのは、日本政府のある「意図」がありました。

既にマリアナ沖海戦で敗北して以来、日本政府は戦局を好転させるだけの手段を失ったことに気づきました。

ですが、このまま敗北することは無条件降伏を意味することも理解していたのです。

そのため、日本政府は手痛い一撃を加えてアメリカ軍の意欲を損ね、条件付きでの講和を模索していたのです。

この「手痛い一撃」こそ、特攻作戦であり、その後のレイテ沖作戦で行った「囮艦隊作戦」だったのです。

数少なくなった戦力を小出しにしても戦局の好転は見込めない、それならば全力を挙げてアメリカ軍に一撃を与え、なるべくいい条件で講和をしたいと考えたのが当時の日本政府だったわけです。

実際「手痛い一撃」は、レイテでも、フィリピンでも与えることができなかったわけですが、それが出来ないなった途端、日本政府や大本営は「本土決戦」を志向し始めるのです。

本土決戦に向けた準備

当初、大本営は日本本土で行われる地上戦を想定していなかったのですが、方針を変え、大本営を長野県の松代に移転させる計画を密かに進めます。

その準備に合わせて、本土決戦に向けた軍備の整備に取り掛かり、1944年7月には実際に本土決戦に向けて具体的な行動が行われます。

大本営は「本土沿岸築城実施要綱」を示し、アメリカ軍の上陸する可能性が高いと予想される沿岸に陣地構築を開始したのです。

また、関東防衛のための大本営直属で第36軍を組織し、関東平野において本土防衛のための布陣に着手しました。

もちろん、本土防衛には陸海軍双方の連携が欠かせません、そして必要としていたのは本土防衛の準備のための「時間稼ぎ」です。

この方針が決まった瞬間に沖縄や硫黄島の守備隊は、アメリカを含む連合国軍の本土上陸侵攻を遅らせるため、持久作戦を余儀なくされたのです。

つまり、日本列島の周辺に浮かぶ島にアメリカ軍が侵攻してきた場合、負けることが分かっていようとも、出来る限りの抗戦して敵に損害を与え、本土決戦までの時間を稼ぐ役割を負うことになったのです。

これらの持久作戦をベースにして、本土の作戦準備態勢を確立する「帝國陸海軍作戦計画大網」が定められたのは1945年1月。

島嶼部で被害を受けたアメリカ軍が、日本本土に侵攻してくる場合、敵軍を日本本土の奥深くまで誘い込み、「手痛い一撃」を加えるという海軍の漸減迎撃戦略が採用されたのです。

あわせて、アメリカ軍が上陸し、国内の通信手段が途絶した場合には、各方面軍が独立して最期まで戦闘にあたることを前提とした「決号作戦準備要綱」が決められました。

こうして陸海軍の最後の力を振り絞った本土決戦「決号作戦」は、兵に後退や捕虜になることを認めず、出来るだけアメリカ軍に損害を与えようとする「一億玉砕」の掛け声のもと、準備が急ピッチで進められていくことになったのです。

日本本土に配備された兵力

終戦の前の年の1944年、実際に日本陸軍の総兵力は、およそ400万人と言われています。

アメリカ軍の兵力が100万とも200万とも言われていたのに対し、日本本土に配備された人員は約45万6千人、圧倒的に兵力が不足すると大本営は判断します。

その兵力の不足を補うために行われたのが「根こそぎ動員」で、満州など北方に配置されていた部隊の内地への移動が行われ、兵員の大量召集と部隊新設が進められます。

1945年2月の第1次兵備を皮切りに、1945年5月23日の第3次兵備まで実施され、約150万人近くが本土防衛のために動員されたのです。

しかし、これらの兵隊は、数だけを見ればかなりの兵力と実感できるものの、実際にはまともな装備も与えられることなく、満足な戦力と言える状況はなかったのです。

本来であれば小銃等が1人1丁は支給されるべきものの、人数分の小銃は存在せず、幕末のころにあったゲベール銃や火縄銃が替わりに渡されるありさま。

もちろん軍刀も数がそろうわけがなく、代わりに日本刀や鉈、鎌、匕首などが支給される始末。

それでも、大本営にしてみれば充分であったと言えます。

なぜならば、根こそぎ動員で確保した兵隊には、最後は特攻攻撃しかないと考えていたようで、特攻させる兵士に銃も刀もいらないというのが大本営の本音だったと言うのです。

実際に動員された兵士は、海岸付近の陣地に身を潜め、アメリカ軍が上陸してきたのを確認して、背後から爆雷を持って戦車に体当たりする特攻戦術のための兵隊でした。

敗北間近の1945年は既に、軍隊の体をなしていない状態で、その他の攻撃方法と言えば、夜間や早朝に行う切り込みなどで、大本営にはこのような戦術しか思いつかなかったのでしょう。

アメリカ軍の上陸

大本営は、アメリカ軍が本土に侵攻してくる時期を1945年秋と予測。アメリカ軍が南九州に上陸する「オリンピック作戦」は、1945年11月の作戦開始予定だったので、この予測は正しかったと言えます。

日本軍に残された資源はもはや「人」しか無く、根こそぎ動員から1か月後には「国民義勇隊」の設置が決定されました。

国民義勇隊は、国民学校初等科終了以上の65歳以下の男性と45歳以下の女性で、病弱者と兵役者を除く全ての国民を「後方部隊」として軍隊に組み込むための組織で、「軍人」としてほぼ大半の成人、少年を動員してしまったのです。

結局8月15日に終戦を迎えたことで、特攻の惨劇を迎えることはありませんでしたが、もし、本土決戦が行われていれば、日本本土はアメリカやソ連に分割占領されることも十分予測されていて、朝鮮半島や東西ドイツのような戦後を迎えていたかもしれません。

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