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サミュエル・コルトとCOLTの歴史

2015年4月15日 マサ22 銃のはなし

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コルト銃器会社の創始者「サミュエル・コルト」は1814年、アメリカのコネチカット州ハートフォードで生まれました。

1830年、コルトが16歳のとき、カルカッタ行きの貨物船カルロン号の乗組員として仕事をし、ある日、汽帆船の外輪式推進器を見て、リボルバーのシリンダーの回転原理を思いついたのだそうです。

SamuelColt

サミュエル・コルトが考えて設計した初期のプロトタイプは、ハートフォードの銃工、アンソン・チェスによって試作され、その後の試作はコルトの友人のジョン・ピアソンが行っていました。

最初のプロトタイプは、リボルバーの原理が基本的に実現されたもので、ハンマーをコッキングするだけで、それと連動したメカがシリンダーを1発分回転させるというメカニズムを持ち、回転するシリンダーには5個の薬室となる孔が空き、これに黒色火薬と鉛弾を前からつめてありました。

シリンダー薬室にはニップルと呼ぶ小孔がつき、これが発火装置と通じていて、引き金を引くと、ハンマーはニップルにかぶせてある雷管を強くたたき発火させ、その火が薬室に入って発射薬に点火、発射させるものでした。

しかし、コルトのアイディアを生かして製作されたプロトタイプは、シリンダーに5発装填して撃ったところ、全部が同時に発火してこわれてしまいました。

これは各ニップルの間に壁を設けていなかったためで、薬室の火薬を誘発させたのが原因でした。

次に、1831~32年にかけてジョン・ピアソンの協力を得て試作されたモデルは長銃身でトリガーガードがつき、コルトが1835年にイギリスにパテント出願に出したもので、別名「コルト・ピアソン・ロングライフルモデル」という銃でした。

さらに、1832~35年にかけ、のちのパターソンモデルの基本となった試作モデルも、ピアソンの手で作られています。

続いてコルトはプロモーションモデル・リボルバーを発表し、これがコルト・リボルバーの名を後に知らしめることになった銃で、ハンマーをコッキングするとトリガーが下に飛び出すメカをもち、コルト史上重要なモデルの一つでした。

1836年3月5日、コルトはニュージャージー州パターソンにパテント・アームズ・マニファクチュアリング・カンパニーを設立して、パターソン・モデルの製作に入りました。

銃はNo1からポケットモデル、ベルトモデル、ホルスターモデルなどいろいろありましたが、口径28,31,34,36,40で、銃身は八角筒のオクタゴンバレルで、2と2/1インチから12インチまで各種作られました。

メカはシングルアクションで引き金は折りたたまれていますが、ハンマーを起こすと飛び出すフォールディング・トリガーで、弾丸の装填は銃身を外して弾倉を抜き出し、薬室孔から火薬を入れて弾を押し込み、つぎに弾倉後部のニップルに雷管をかぶせて、セットします。

これには弾丸を押し込むための装填レバーが銃身下についているタイプも少しですが作られました。

コルトはこの銃を政府が買い上げてくれるものと確信していましたが、当時、乗馬用武器としての必要性をあまり認めておらず、採用をしぶっていました。

一方、独立したテキサス共和国ではテキサス・レンジャースが治安維持用にこれを注文し、その彼らが愛用したためコルト・パターソンモデルは「テキサス・モデル」とか「テキサス・パターソン」などと呼ばれています。

彼らが装備したのは、口径40、銃身7インチのもので、弾薬装填に時間がかかるためどうしても2挺は必要でした。

この画期的なパターソンモデルも、売れ行きはあまりよくなく、1841年に会社は倒産してしまいました。

コルトは倒産後、ニューヨークに出て、海底電線の研究や敷設などを仕事にしていました。

1845年、テキサスの合衆国への併合が原因となってメキシコとの間に戦争が始まるようになります。

テキサス・レンジャーも米陸軍へ編入され大活躍をするのですが、このときレンジャーの持つコルト・パターソンモデルの性能が、ある将校の進言によって将軍に認められ、将校の声ががりで、米陸軍もコルト・リボルバーを採用することになったのです。

当時、テキサス・レンジャーの中佐で正規軍の大尉として勤務していたサミュエル・ウォーカーは以前からコルトと親交があったため、軍から1,000挺のコルト拳銃の発注書をもってコルトを訪れました。

コルトは喜びましたが、倒産のため拳銃を生産する工場も資金もなく、軍からの拳銃の発注書をもとに、コネチカット州の富豪発明家イライ・ウィットニーから機械工場と資金を借りることができました。

新しいリボルバーの生産には、ウォーカー大尉が銃を実戦で使用して得た体験をもとにコルトにアイディアを提供し、コルトもパターソンモデルに大改良を加え、ここにウォーカー大尉が望んだ、口径44で6連発、野戦向きで頑丈なシングルアクションのパーカッションピストルが出来上がりました。

1847年10月、新型拳銃の最初の2挺が完成すると、コルトはただちにウォーカー大尉に贈られたが、この自分が望んだ拳銃を手にした翌朝、大尉はファマントラの戦いで白兵戦となり、新型拳銃を握ったまま、壮烈な戦死をとげたのでした。

この拳銃はコルト・アーミーリボルバーM1847ですが、ウォーカー大尉を記念して「コルト・ウォーカーモデル」と呼ばれるようになりました。

ウォーカーモデルは、口径0,44インチ6連発、シングルアクション、全長394mm、銃身長9インチ、重量2,080g、もとのほうがオクタゴンになっている円筒銃身の大型リボルバーで、銃身の下に装填レバーがつき、引き金はトリガーガードつきになり、実戦向きになりました。

ウォーカーモデルは長すぎて携帯に不便だったため、銃身を短くした、コルト・アーミーリボルバーM1848が次の正式な軍用拳銃となりました。

これは当時の騎兵の名称をとって「ドラグーン・モデル」と呼ばれています。

ドラグーン・モデルは、口径0.44、6連発、シングルアクション、全長356mm、重量1,842g、7と2/1インチの円筒銃身で、1860年まで米陸軍の正式拳銃として使用されました。

このドラグーン・モデルには、1型から3型までありますが、トリガーガードが少し違うだけでほとんど変わらず、この頃からパーツに互換性のある精度の良いものが作られるようになり、同じ1848年に、ベビー・ドラグーンが発売されました。

口径0.31で5連発、シングルアクション、銃身は八角筒で3,4,5,6インチの4種類、装填レバーのあるものとないものの両方が作られ、3インチが全長203mm、重量567g「オールド・モデル・ポケットピストル」というのが正式名称で、一般シビリアン向けに製作された銃でした。

M1849ポケットリボルバーが発売されましたが、これはベビー・ドラグーンと変わらず、ただ、円筒銃身や6連発のものも作られました。

コルト・ウェルズ・ファーゴモデルと呼ばれるものは、M1849ポケットモデルの八角銃身で装填レバーのついていないものだと言われています。

次のM1850ポケット・モデルは、ベビードラグーンの発展型で、八角銃身、6連発、機能的には変わらず、1872年まで製造されています。

コルトが海軍のために製作したのがM1851ネービーモデルで、それまで米海軍でもドラグーン・モデルを使用していましたが「軽量のリボルバーを」という希望で製作したと言われ、また一説には、米海軍とは関係がなかった、という説もあります。

口径36、6連発、シングルアクション、全長330mm、銃身長7と2/1インチ、八角銃身で重量は1,029gです。

軽量で バランスよく携帯に便利で開拓者の護身用に買われ、このモデルは「ワイルド・ビル・ヒコック」も2挺愛用していた時期があったと言われています。

1852年、イギリスのロンドンにコルトの工場が建設され、ここでもM1849ポケットとM1851ネービーが製造されました。

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