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日本映画に見る海軍特攻兵器

2015年3月17日 ぼろねこ ミリタリーコラム

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映画「出口のない海」(2006 松竹)で、市川海老蔵演じた主人公が、学徒士官として特攻作戦に参加する。

ここに登場するのが、日本最初の特攻兵器・回天だ。

敗色濃い昭和19年10月から帝国海軍が実戦に配備した回天は、単独搭乗用の潜水兵器で、海中から敵艦に体当り奇襲する。

何しろ、大型酸素魚雷に外装を被せ、潜望鏡や操舵桿を組み込んだだけの簡単な構造で、もちろん安全帰還の望みは全くなかった。

回天

そもそも潜水艦ではなく、魚雷を基に開発されたのだから、搭乗員にとって非情この上ない

人間魚雷と呼ばれる所以だ。

この著想も、真珠湾の潜水艦攻撃の成功が念頭にあったのだろう。

バイタル・パートなどといった防禦思想を一切無視した設計に加え、操縦も不安定だったと言われ、過酷な訓練中から、海底に坐礁、艇内の僅かな酸素が尽きて散華した若き烈士も少なくなかったと伝えられる。

但し、ノモンハン事件のソ連戦車よろしく、搭乗用ハッチが内側から開けられないなどという風聞は、事故機の救出例も、報告されているため、ただの俗説と思われる。

また、脱出装置も構想されながら、戦局の逼迫から実現が間に合わなかった哀しい実情もあった。

なお作戦名は、プロシャから輸入した、江戸幕末のコルベット艦・回天丸に由来する説が有力だ。

この特攻兵器は昭和18年、特殊潜航艇訓練員だった黒木愽司と仁科関夫両少佐が発案したとされる。

永野修身軍令部総長に一旦は却下されるも、戦局の悪化が計画に拍車をかけ、翌19年には海軍工廠魚雷実験部で「○六」として試作を開始、米内光政海軍大臣が断腸の思いで決断したのは8月に入ってかららしい。

半年以上も時間を要したのも、搭乗員の脱出装置が未完成だったからに他ならない。

兵に損耗の危険を冒す兵器の採用を、艦攻司令部は強く躊躇したのだ。

一方で、呂一五潜水艦長としてフィリピン沖で散華したとされる竹間忠三少佐も、自らの「魚雷肉功案」を血書で認め、山本五十六連合艦隊司令長官に具申したともいう。

この開発までの経緯を描いたのが、「人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊」(1968 東映)。

作中の役名は異なるも、黒木を鶴田浩二、仁科を梅宮辰夫がそれぞれ演じた。

蛇足ながら、悪役を多く手掛けた小池朝雄、天津敏、遠藤辰雄までが軍服を着て登場するのも一興。

昔から、誰でも兵隊と農民は似合うと言われて来ただけに、なかなかの押出しなのは流石だ。

発案者二人が訓練中に殉職した後は、予備士官役の松方弘樹、伊丹十三(当時・一三)等の群像劇として、出撃までを描く。

また、石原裕次郎が主演した「人間魚雷回天出撃す」(1956)は、終戦間近の昭和20年夏の作戦行動を取り上げている。

史実では、20年春の時点で制海権を米国に握られており、潜水艦での作戦敢行は最早、不可能だった。

この頃、回天は洋上艦からの発射や、本土決戦に備えての訓練など、この期に及び、更に試行錯誤を重ねていたらしい。

回天搭乗員は作戦当初から、現役軍人のみならず、予備士官や予科練からも志願者を募った。

恐らく自動車運転の経験さえ覚束なかっただろう学生たちが、果敢にも回天に搭乗したのだ。

もとより帰投は決して許されぬ、たった独りの過酷な任務である。

彼らの酷薄な運命は、学徒士官が遺した手記からも痛切に伝わって来よう。

前述した東映「人間魚雷」も、戦没士官の手記に取材した企画だった。

同じく、この手記から須崎勝弥が脚本を執筆、後に東宝に転じ「潜水艦イー57降伏せず」(1959)「ハワイミッドウェイ大海戦 太平洋の嵐」(1960)など、幾多の大作を世に問うた松林宗恵が監督したのが「人間魚雷回天」(1955 新東宝)だ。

実は、二人とも学徒出身の士官だった

海軍少尉として厦門(アモイ)島陸戦隊長に任じられた松林は、実戦の軍務経験があるだけに、特に所作や軍裝のディティールにも、誤りはまず考えられない。

更に脚本家も、沖縄戦にも参加した海軍航空隊少尉。

作中、事故で殉じた和田孝は終戦時に兵学校に在籍、整備兵の一人を演じた西村晃は学徒からの特攻隊員と、他にも身をもって戦を知る才能が多く参画している。

戦争映画を観るなら、かような手練の秀作をと、敢えて付記しておく。

この作品では、既に回天が実戦に配備された後の昭和19年秋からの、学徒士官の苦悩が微妙な陰影を加味しつつ描かれる。

場所の提示はないものの、山口県大津島に設けられた訓練基地が舞台だろう。

ミニチュア・ワークを駆使した潜航場面を随所に挿入、冒頭の回天の爆破実験が何より珍しい。

ノン・クレジットながら、上村貞夫等による特殊撮影も、CGなぞには望めない、大掛りな弾着場面を可能にしている。

実物大のプロップも複数台を準備したと、画面から推定でき、回天内部の造作もかなり忠実と思われる。

後半の海戦では、南太平洋で出撃するも、岡田英次演じる主人公の乗る回天は漏水のため、はかなくも海底に沈んでしまう。

黙して終末を待つだけの厳粛な靜謐を、淡々と演出した名場面に仕上がっている。

昭和20年に入ると、攻撃機も激減。

「余った九三式魚雷にドラム缶を付けて海に流す」作戦が練られたとは、岡本喜八の回想による。

ポツダム宣言受諾を巡る運命の半月を描き切った「日本のいちばん長い日」や、大陸戦線が舞台の痛快アクション「独立愚連隊」で知られる監督もまた、軍隊経験者だ。

但し、既に東宝に在籍していたので、予備士官ではない。

帝国陸軍特別甲種幹部候補生、いわゆる特幹候だった。

しかも、昭和20年。

回想に頼ると、本土決戦要員として上陸する米軍を迎え撃つべく、訓練を受けていたのだという。

この頃の切ない心象風景を描いた異色作が、「肉弾」(1968年 同作を作る会)だ。

寺田農演じる主人公が、ひたすら魚雷を磨く。

そう、魚雷はもう一人の主人公と言って良いのだ。

終幕、ドラム缶製の特攻兵器が画面に登場し、太平洋を目指す。

しかし、モーター・ボートを改造した特攻兵器・震洋や、特殊潜航艇・海龍とは異なり、日の目を見ることはなかった。

海龍も試作まではたどり着いたが、実戦配備には至らなかったのだ。

本作にも実物大の、魚雷のプロップが登場、ここまでクロース・アップが多用される例も珍しいだろう。

この作品は監督本人が中心となり、製作費を負担した低予算の自主映画だったから、このプロップの造形費用はかなりの割合を占めたと推察できる。

ちなみに魚雷の映像なら、戦中にも魁(さきがけ)がある。

記録映画「轟沈 印度洋潜水艦作戦記録」(1944)は、潜水艦に海軍報道班撮影隊が乗船して、実際の作戦活動の一部をもフィルムに収めていて、貴重。

艦長の訓示によると、地名こそ明らかにしないものの、アフリカ沖からの敵補給船を撃沈するのが任務だったようだ。

どんな技法で撮ったのか、潜望鏡越しと思える、輸送船が海中に沈む様を見事にとらえているのにも感心、よくぞ、ここまで撮影を許したと驚く程、例えば、魚雷の装填まで克明に写している。

当然、爆雷の逆襲を受け、艦内の照明が切れたとタイトルに出るから、正しく命懸けの撮影だったのだ。

ロバート・ワイズ「深く静かに潜航せよ」(1958)から、ヴォルフガング・ペーターゼン「U・ボート」(1981)まで、海彼でも、潜水艦を描いた映画に傑作は多い。

本邦でも、山本嘉次郎「ハワイ・マレー沖海戦」(1943)田坂具隆「海軍」(1943)の二本以来、潜航作戦を取り上げた作品は、まず一見に価すると信じてやまない。

【参考文献】「Kihachi フォービートのアルチザン」 東宝出版事業部

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